毎日の聖書8月15日〜
おざく台教会毎日の聖書 8月15日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
8月15日(月)ネヘミヤ記9章
5節「立ち上がって、とこしえからとこしえまでいますあなたがたの神、主をほめたたえよ。すべての祝福と賛美を越えるあなたの栄光の御名はほむべきかな。」
これを受けて6節からは、不誠実な民を誠実に導いてくださっていた神の御業が称えられます。神様はただ偉大であったり、力があるだけではなく、不誠実な者を、見放さず、見捨てず、誠実をら抜いてくださる方なのです。今しっかりと時間を取って、今までのあなたを誠実に導いてくださった神の御業を数え、称えてみてください。
「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」第2テモテ2章13節
8月16日(火)ネヘミヤ記10章
39節「 この部屋に、イスラエル人とレビ人たちは、穀物や、新しいぶどう酒や油の奉納物を携えて来るようになっているからである。そこには聖所の器具があり、また、当番の祭司や門衛や歌うたいもいる。こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」
信仰の形骸化はいけませんが、形を大切にすることも信仰の大切な要素です。最近のあなたの、礼拝、日々の祈り、聖書通読、に対する姿勢はどうでしょう?なおざりになってはいませんか?あなたなりに、どのように神様に応えましょうか?
「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」ヤコブの手紙4章8節
8月17日(水):ネヘミヤ記11章
2節「すると民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな、祝福した。」
人間的な都合や幸せだけを求めるなら、自分の土地を得て住んだほうが賢いでしょう。しかし、神と人を思い、損な生き方を選ぶ人達もいたのです。そして、そのような生き方には祝福もまた備えられていたのです。
あなたを動かすのは、目の前の都合でしょうか?神と人への思いでしょうか?
「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』・・・『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」マタイ23章37&39節
8月18日(木)ネヘミヤ記12章
43節「こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」
この喜びは、繁栄や成功などの人間的な喜びとは違い、神に犠牲を捧げ、神に献身する喜びです。私たちは普段どのようなことに喜んでいるでしょうか?あなたの喜びは、物事や状況にありますか?それとも神そのものが喜びですか?
「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるから
だ。」イザヤ61章10節
8月19日(金)ネヘミヤ記13章
15節「そのころ私は、ユダのうちで安息日に酒ぶねを踏んでいる者や、麦束を運んでいる者、また、ろばに荷物を負わせている者、さらに、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじくなど、あらゆる品物を積んで、安息日にエルサレムに運び込んでいる者を見つけた。それで私は、彼らが食物を売ったその日、彼らをとがめた。」
念願の神殿が建ち、儀式が回復し、律法が語られても、いたるところで神への不従順があり、その度に悔い改めが必要でした。罪は放置されるより、とがめられるほうが幸いなのです。何度でもとがめられ、何度でも悔い改めましょう。私たちは道からそれても、踏み外しても、道を誤っても、悔い改めの生涯を歩み続けるのです。
「 あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」ヨハネ黙示録2章5節
8月20日(土)エステル記1章
21節「この進言は、王と首長たちの心にかなったので、王はメムカンの言ったとおりにした。」
エステル記には、神という言葉も主という名も出てきません。しかし、背後には神がおられ、全てを働かせて益としてくださいました。神が見えない時、感じられない時、それでも覚えておいてください。神はその民と、あなたと共におられます。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8章28節
8月21日(日)エステル記2章
23節「このことが追及されて、その事実が明らかになったので、彼らふたりは木にかけられた。このことは王の前で年代記の書に記録された。」
称賛も褒美も受けなかった行為ですが、しっかりと記録され、後に神の民を救うことにつながります。私たちが神への従順ゆえに行う行為も、称賛や褒美は得られないかもしれませんが、神の前ではしっかりと記録されています。それは人の救いや、天での報いにつながるのです。
「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」ルカの福音書6章35節