8月14日のメッセージ

信徒説教者:小田切武さん

貴方はに信頼を置きますか       詩編131編2節

「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。

私たちが過去に於いて、一番不安なく過ごせた時はいつの日であったでしょうか。どなたにも共通して言えることは、幼い日ではなかったかと思います。毎朝小学生が家の前を登校する姿を私たち夫婦は楽しく見ています。子供たちは皆笑顔を浮かべ、全身で喜びを表し、友達と楽しそうに登校しています。なぜ子供にはあのように平安が与えられ、いつも喜んでいるのでしょうか。それは子供たちには絶対的に信頼できるものがあるからではないでしょうか。子供たちが信頼しているのは親であり家族ではないかと思います。(今日では悲しい事件もありますが、)子供たちは親や家族に対しての信頼感に守られているのです。子供が親や家対して信頼を持つことによって平安を得ているならば、大人となった私たちが平安を得るためには、何に対して信頼を持ったらよいのでしょうか。果たしてそんなものがあるのでしょうか。

 

エレミア書31章3節には「永遠の愛を持って、私はあなたを愛した。それゆえ、私はあなたに、誠実を尽くし続けた。」とあります、これを語っておられるのは創造主なる神です。私たちを創られた創造主の神は愛の神であり、神は私たち人間を愛の対象としてお創りくださったのです。ですから、この世界は、神の愛満ち溢れています。皆さん、周りを見渡してください、新鮮な空気、暖かい太陽、美味しい果物、美しい花、天からの雨、海の魚、素晴らしい景色、野に住む動物などすべてを、神様は私たちのために必要なものとして準備してくださり、最後に私たち人をお創りくださったのです。その中で人は平安と喜びに満たされて生きて行く事が約束されていました。しかし、残念なことに人は神から離れてしまいました。しかし、この創造主なる神こそが、私たちを愛し、私たちの悩みや悲しみを知ってくださり、祈りに応えて助けてくださるお方なのです。この神に頼り信じることこそが私たち平安と喜びを持って生きていける秘訣だと思います。

 

では、どうすれば私たちは神を信じ、頼ることが出来るようになるのでしょうか。 マルコの福音書10章14節15節を読んで見ると「イエス様は子供たちを招き、彼らの上に手を置いて祝福されました。イエス様は子供を愛し大切にし、祝福されました。そして誰でも子供のようにならなければ、天国に入れないと言われました。」と記されマタイの福音書18章3節4節には「まことにあなた方に言います。向きを変えて子供たちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」「ですから、だれでもこの子供のように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」と記されています。

 

なぜイエス様は子供のようにならなければ神を信じ、天国に入れないと言われているのでしょうか。子供だけが天国に入る条件を備えているのでしょうか。一つ言えることは子供は体裁ではなく、本心から親に頼っていると言うことではないでしょうか出来る事でも自分弱くて力がないので出来ないことある事を知っていますそして出来ないことは素直に親に頼ります。神の子である私たち神の前では、この子供たちのような謙虚姿勢が求められているのではないでしょうか。自分の力や財産に頼るのではなく、神の前に自分が力の無い者であることを認めてゆだねる心で神を信じ受け入れる事、この事を神は祝福し、助け、力を与えてくださるのではないでしょうか。

 

第一ペテロの手紙2章2節には「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、御言葉の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」と記されています。子供たちは親に対してしいものを素直に欲しいと求めます。同じように、私たちは神が全てを与えてくださるお方であると信じて、子供たちが親に願うように必要なものを与えて下さいと祈り求めて行く姿勢を神は望んでおられる

のです。神は私たちに何でもできて、完全であることを望んではおられないのです。私たちの弱さを認めてくださり、私たちが子供のように、その弱さを認めて神信じ、求め、頼って来る事を望んでおられるのです。そして、それに応えようと今も忍耐を持って私たち一人ひとりがご自分に近づいて来る事を待っていて下さるのです。

 

今日の聖書個所詩編131編2節にはたちのたましいの状態が「母親と乳離れした幼児」の関係で表現されています。乳離れした幼児はいつまでも母親の胸の中には居ません。しかし,母親から離れられない状態にあります。母親と一緒にいることが安心を与え,危険を感じさせないための条件になっています。そして,幼子が母親の顔や言葉に心を向けながら成長していく関係が強調されています。私たちはこの乳飲み子と母親の関係を神様と自分の関係にすることが求められております。

 

私は小学校4年生頃、手首を骨折したことが有ります。(余談ですが・・・)当時、私が育った地域では各家で使う炭を自分たちで焼いていました。山から炭にする木を切り出して共同で所有していた炭焼き窯で炭を焼いていました。私は父親の手伝いで、この木を山から炭焼き窯迄背負って運び出す手伝いをしていました。小学生の子供ですから背負っていたのは少しの木だったと思いますが、冬でしたので足もとに有った霜柱に滑って転び、骨折をしてしまいました。その日母親は外出していましたが帰って来て、「痛い、痛いと」泣き続けていた私を見て、枕元で「ごめんね、ごめんね」と涙を流しながらギブスの上から私の腕を撫で続けてくれました。この事で私は痛みも忘れて安心していつの間にか眠っていました。何時間かして、私が目を覚ました時に、母はまだ枕元で私の手をさすっていてくれました。私はこの時の骨折の痛さより母がさすり続けてくれた時の温もりと安心感を今も覚えています。

神はこの地上の母親とは比較にならない愛と無限の力を持って私たち一人一人を愛し、守ってくださるお方です。この神に私たち信頼を置き、頼り、委ねて生きて行くとき、私たちは子供のように神にある平安を受け取って生きて行く事が出来るのだと思います。

 

学校の運動会で大勢の子供たちがいるからと言って、自分の子供を見つけることのできない親はいないと思います。子供が何処にいても何をしていても自分の席から子供を目で追っています。人間の親であってもそうなのです。神はたとえまだ救われていない魂であっても、何時でもどこでもその一人一人をご自分の子として見つめられ、自分の元に帰ってくることをひたすら待っていて下さるお方です。

 

信仰は神を信じる力ではなく、神が与えてくださる信頼を受け取るです。その時、私たちが神を信じる前に神が私たちを見つけ、受け入れてくださいます、この時、私たちは魂において神と交わり、神が自分を愛し続けてくださっているということを知ることが出来るのですそして、私たちが神を見失いそうになっても、自分の弱さに押しつぶされそうになっても、居場所がなく、孤独を感じる時でも、神は変わらず私たちの傍らにいてくださり助け、いてくださいます。決して私たちを見捨てないお方です、絶対に裏切らないお方である事に信頼し、その愛と恵みと力を受け取っていきましょう。 

信じ、頼る者には無限の愛と無制限の力を持っておられる神がいつも臨んでいてくださいます。

今週もこの約束に信頼して安心と喜びに満たされて主と共に歩んで行く一週間でありたいと願います。

【今週の黙想】いつも神が自分と伴にいて下さり、いつでもどんな状況であっても助け、導いてくさる方であること信頼して平安の中を歩めて行く事のできる幸せに感謝していきたいと思います。

Top