1月25日のメッセージ
2026年1月25日おざく台キリスト教会
「この善いお方に信頼して」 聖書箇所 創世記50:15~21 井本香織神学生
50:15 ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。
50:16 そこで、彼らはヨセフに言い送った。「あなたの父は死ぬ前に命じられました。
50:17 『ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、父の神のしもべたちの背きを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。
50:18 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「ご覧ください。私たちはあなたの奴隷です。」
50:19 ヨセフは言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。
50:20 あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。
50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた。
1、人との再会
以前、職場が一緒だった人とばったり街でお会いしたことがありました。正直、一緒に働いていたときは、大変なことも多くありましたが、和やかにおしゃべりをして、別れることができて、ホッとしました。しかし、残念ながら、「この人と再会したら、どうだろう・・・。困るな、どうやって逃げようかな。」という方は何人かいらっしゃいます。でもこれは私だけのことではないようです。創世記を見渡してみると、嫌な思いがよみがえる経験、「再会したくない人」との物語が、実に多く登場します。
2、「恐れ」の登場
創世記の最初には、人の代表としてアダムとエバのストーリーが描かれています。「あなたが、神のようになれるんだよ。」という悪魔のささやきを聞いて、彼らは神様に背いて、神様から隠れました。彼らにとってはあんなに親しかった神様が「再会したくないお方」になってしまいました。
神様との関係が壊れた結果、人が手にしたものは何だったでしょうか。人は、神に似た素晴らしいものとして造られましたが、神様を無視して善と悪を判断するようになりました。それぞれが、小さな神々のように振る舞うようになったのです。
その結果、本当の神様が怖くなり、隠れるようになりました。間違いを犯すと、互いに相手のせいにし始めました。人との関係にも「恐れ」が生じるようになったのです。これが創世記の始まりです。
3、悪さえも、良いことにしてくださった方を知って
そして今日は、創世記の締めくくりです。ヤコブの息子たち、ヨセフの物語です。ヨセフは15歳のとき、兄たちに妬まれ、奴隷としてエジプトに売られました。理不尽な仕打ちを受け、牢に入れられるほどの苦労をしましたが、聖書は繰り返します。「主はヨセフと共におられた。」
30歳のとき、ヨセフはエジプトの食料大臣となります。大飢饉の中、兄たちは食料を求めてエジプトに来ました。それは、ヨセフにとって、おそらく二度と向き合いたくなかった人たちとの再会でした。しかしヨセフは兄たちに赦しを与えます。仕返しをしないどころか、困窮していた一家(70名)を丸ごとエジプトに引き取ります。
一方、お父さんが死んだ後、兄たちは恐れます。「ヨセフは仕返しをするのではないか。」恐れは、相手を「何倍にも怖い人」に見せます。冷静な判断ができなくなってしまうのです。
そんな兄たちに、ヨセフは言いました。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。」(創世記50章19節)
ヨセフは、「神の代わり」になることを拒みました。神様のことは信頼できない、自分が神の代わりとなって、復讐しなければ・・・・。ヨセフの脳裏には、その昔エバに悪魔がささやいたようなささやきが何度も聞こえてきたのではないでしょうか。彼はエジプトでナンバー2の権力者なのです。彼を制御してくれる人は、ほぼいないのです。
しかし、ヨセフは、自分の思いと行動の前に、神様を置いていました。「神様は絶対善い方だから、この方に信頼して生きよう。」と。
そして、こう続けます。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。」(創世記50章20節)
悪は、確かに悪です。神様は、悪をそのまま放っておかれる方ではありません。神様は時が来て、全てのことを明らかにしてくださり、正義を行ってくださる方です。ヨセフも兄たちに「あなたがたは私に悪を謀(はか)った。」とはっきり告げています。しかし、ヨセフは知っていました、そして信じていました。神様は、悪よりも大きな善を成し遂げられるお方なのだと。ヨセフは、苦しい時も、先が見えない時も、共にいる神様が善い方であることを、信頼し続けました。だからヨセフは確信を持って言います。
自分がエジプトに来たのは、とても辛いことだったけれども、一族総勢70人が飢饉から助かるために、神様があらかじめ備えていたことだったのだと。彼は自分の人生を、恨みと、復讐と、苦しみに留まることを手放しました。もちろん、私たちは苦しい時になげいていいのです。神様は、全部受け止めてくださいます。分かってくださいます。でも、忘れないでください。私たちの神様は善いお方で、神様の子どもである私たちが苦しみの中に留まるようにはなさいません。闇の中を歩んでいるように思えても、それは真っ暗闇ではないのです。闇の中にいるように思うときこそ、神様が光となってくださいます。
ヨセフは、兄たちの「お父さんも、生前、赦してやりなさいと言っていた。(仕返しをしないでほしい。)」という懇願を聞いて、涙します。
この時のヨセフの涙には、どのような思いが込められていたのでしょうか。苦しかった、恨んでいた、仕返しをしてやりたいと何度も思った。けれども、その思いを神様が乗り越えさせてくださった。ここまで自分を導いてくださったという涙だったのでしょうか。兄たちから、まだ、自分が恨んでいると思われているのか・・・というショックがあったかもしれません。もしくは、兄たちも自分に対して行ったひどい行いを後悔し、くるしんでいるのだ、ということを目の当たりにした憐れみの涙だったのかもしれません。ヨセフは、苦しみ、恨み、後悔、それを遥かに超えた、神様からの回復と、希望とを、垣間見ていたのです。
4、安心して生きることができるように
私たちは、悪魔のささやく声ではなく、神様の声を聞き続けたいと思います。不安なとき、心配なとき、神様はこう語られます。「恐れないでいなさい。私がいるよ。あなたは私の子どもだ。」と。神様は悪と恐れを、希望と愛、善いものに変えてくださる方です。
十字架は、もともと恐れを与える刑でした。ローマ帝国に逆らったら、同じような目に合うぞ、という見せしめの刑だったのです。でも、今は、十字架は、恐れのシンボルではありません。私たちが十字架を見上げるとき、どのような思いが連想されるでしょうか。十字架は、神と人との和解の象徴です。もう、神様とあなたとを隔てるものは何も無くなった。イエス様の十字架が架け橋のようになって、人と神との隔ての壁を壊してくださいました。もう、恐れなく、神様と共に過ごすことができる。そのために、イエス様が、命をかけるほど、私たちを愛してくださったこと。この愛を受け取って、あなたも、神と人とを愛する生き方へと招かれているのですよ、という呼びかけです。
まさに、ヨセフの言葉のようです。
「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。
ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた。(創世記50章20−21節)
皆さんの一週間が、神様からの安心を受け取って過ごすものとなりますように。

