2月1日のメッセージ
2026年2月1日「キリストの福音⑦」 マルコの福音書2章18〜22節
2:18 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」 2:19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。 2:20 しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。
2:21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。 2:22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」
<新しい心で>
キリストは、21〜22節の布とワインの話をします。当時は水筒などありませんから、動物の皮で作った革袋に、ワインや水を貯めました。ところが、ワインは発酵し二酸化炭素を出しますので、すでに伸び切った古い革袋では、それ以上伸びずに破れてしまう。新しいものの影響・作用を、古いものは受け止めきれない。だから、新しいぶどう酒は、新しい革袋で、同じように、キリストがもたらした新しい知らせは、今までと違う新しい心や姿勢で受け止める、というお話です。では、キリストはどのように新しいのでしょうか?
イエスはこの直前に言いました。17節「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
当時は、丈夫な者、つまり正しい人が、神に尊ばれ、病人、つまり罪人は見捨てられると考えられていた。けれど、キリストは、罪人にこそ、見捨てられると考えられていたものにこそ、招くのです。この、当時の常識と異なる、新しさは、人々を戸惑わせました。
イエスは最初に言いました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(1章15節)悔い改め(メタノイア)は、考え方を新しくする、という意味の言葉です。神の国が近いので、考えを新しくしなさい、イエスのもたらす新しさを、新しい姿勢で受け止めなさい、というのです。
<もうキリストがいてくれるから>
そのうえで、断食の話を理解したいのです。断食とは、ただ食べないことではありません。人にとって大切な食という営みを脇においてでも、神に切に祈る行為です。深い悲しみや悔い改めを神に向けて表現すること、神からの憐れみを請い求める、大切な宗教行為でした。ポイントは、私達側から神を求める行為です。ですから、断食する人は立派だというパフォーマンスにもなりました。
そこで、彼らは、定期的に断食をしていないいイエスや弟子たちを責めるのです。「断食は、信仰の表れであり、神に近づく道だよ。あなたがたは神を求めないのか。あなたがたは、私達のように真剣ではない、不十分だ!」この質問は批判であり、自己アピールなのです。
もちろんキリストも、40日間断食しました。断食を、神を求めることを否定していない。けれど言うのです。2:19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
当時は、婚宴を1週間ほど続きました。その期間は、お祝いの時、喜びの時であり、祝宴に参加する、招待客は、花婿を祝うために、断食をしないことになっていました。けれど、場面は、結婚式ではないのです。花婿もいません。花婿はどこにいるのでしょう?
聖書では、神やイエス・キリストを、様々なものに例えます。羊飼い、善き父、陶芸家、獅子、羊、ブドウの木、光、パン、などなど。そしてもう一つ、神は、花婿として、誠実な夫として、表現されているのです。そして、神の民、教会は、妻に、花嫁に例えられるのです。神と人との関係が婚姻関係に例えられるのです。
あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。イザヤ54:5
花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。イザヤ62:5
しかも、ただの夫ではありません。誠実を尽くす夫です。
古代の中近東において、女性は男性の所有物でした。けれど、聖書は、神を、伴侶をどんなときも愛しぬく方として、示しているのです。例え相手が不誠実であっても、誠実を貫く存在として。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。」エレミヤ31:3~4と愛を誓う方として。
結婚式では、花婿は黒を、花嫁は汚れのない純白のドレスを着るように勧められました。しかし、花婿がキリストなら、花婿こそ純白な服が相応しいはずです。そして、花嫁である私達は、真っ黒、又は、汚い色が混じった泥だらけでボロボロの服が相応しい。けれど、汚れのないはずのキリスト、花婿が黒を着て、汚れだらけのはずの私達花嫁が純白のドレスを着る。キリストは、私達の汚れた黒い服、と、ご自身の真っ白な服と取り換えてくださった。私達の身代わりに罪あるものとして十字架にかからり、私達を聖い者としてくださったのです。
イエスは婚姻の話をすることで、自分を花婿に、弟子たちを花婿につき添う友だちに、そしてイエスといるこの時を花婿の婚宴の時に例えています。ですから断食はふさわしくない。いえ、断食する必要がないのです。
断食とは、神を求める行為です。一緒にいてくださいと、顧みてくださいと、願う私達側からの行為です。けれど、もう誠実な方が眼の前にいる。私達を見捨てない方が、すでに来ている、私達はすでに顧みられている。愛が差し出されている。
眼の前にいる人を、遠くに呼び求める必要はない。愛を誓ってくれる人を前に、愛されようと努力する必要はありません。必要なのはただ、受け止めることだけです。
私達が神に近づく努力も、神に差し出す何かも、要らない、求められていないのです。神が人に心を向け、神の方から来てくださったからです。
イエスはすでに来ている、私達は招かれている。神は私達一人ひとりの前に、花婿として、誠実な夫として、永遠の愛を誓っている。
その愛の誓いを無視して、自分の祈りで、自分の正しさで、神に受け入れられようとしていませんか?祈りも正しさも、大いに結構です。ぜひ、祈る人であり、正しい人であり、善行を行う人であってください。けれど、それは神の愛に何かを増し加えることはできないのです。
私達は何かをしたり、何かを差し出すから愛されるのではなく、愛されたからその愛に応えるのです。どうかこの順序を間違えないでください。いつも神から愛される、信仰のスタートは、神の側からなのです。

