8月21日のメッセージ

2022年8月21日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ①〜

<聖書:マタイの福音書>

1:3 ユダに、マルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、・・・1:5 サルモンに、ハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、リヤの妻によってソロモンが生まれ、・・・1:16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。・・・

1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 

<福音>

 昨今ニュースではカルト宗教団体と政治の関連が取り沙汰されいます。私たちにとっても、信仰について、宗教について考えさせられる機会となりました。それらの宗教と、キリスト教はどう異なっているのでしょう?

 その鍵となる大切な言葉が「福音」です。福音は、ユーアンゲリオン(エヴァンゲリオン)で、「良い」と「知らせ」が合わさって出来た言葉で、英語ではGospel(ゴスペル)です。旧約と新約をつなぐ架け橋とも言われるマタイの福音書を通し、良い知らせ、福音を知っていきたいと思います。

<功績でなく選び>

 新約聖書の最初、マタイの福音書は、キリストの系図から始まります。さっと読み飛ばしてしまうような系図も、福音で溢れています。この系図には、本来系図に載らないような人達の名前が載っているのです。

 通常ユダヤの家系図は、代表として男性の名が記されます。(今日的ではないですが、文化としてご理解下さい。)けれど不思議なことに、福音書の系図には、「◯◯◯◯によって」と、4人の女性が記されています。

 

 それならば、よっぽど立派な女性かと思いきや、そうではないのです。3節のタマルは身を売る女性のふりをして子を宿しました(創世記38章)。5節のラハブは、異邦人の身を売る女性でした(ヨシュア記2章)。同じく5節のルツは、神の祝福の外にあると考えられていた異邦人でした(ルツ記)。6節のウリヤの妻(バテシェバ)は、不倫事件・殺人事件の渦中の人物です(第2サムエル記11章)。普通なら一族の恥として隠してしまう、とてもでないですがユダヤ教の家系図に載せられる人物ではありません。

 そして、5人目の女性、キリストの母となるマリアも本来は田舎の貧しい娘。しかも、神の力によって身籠るという、誰からも理解されないような妊娠をしたため、誰からも家に受け入れられず、馬小屋で出産するという悲しい出来事を経験しました。

 血統主義、純血主義、能力主義、実力主義、家柄や、経済や、社会的な評判、そういった基準では、絶対に選ばれない女性たちです。けれど、旧約聖書はその女性たちをしっかりと描き、そして、新約聖書の最初の系図に、彼女たちの名前が載せられているのです。

 一般の宗教においては、血統、努力、貢献、功績、善行、そういった物事が神の寵愛を受ける条件となります。けれど神様は、当時の社会的には、人間的判断では、見下され、疎まれうような女性を選び、キリストの祖先としました。救い主はあえて、そのような家系を選び生まれてくださったのです。

 私たちは、マリアのように貧しくとも、ルツのように血筋や家柄が優れていなくとも、自分の生まれも、育ちも、卑下したり、恥じたりする必要はないのです。タマルや、ラハブや、ウリヤの妻(バテシェバ)のように、過去の失敗や、人様に見せられないものを抱えていても良いのです。それでも神は、私たちに目をかけてくださる、関わってくださるのですから。

 正しくなければ愛されない。優れていなければ、尊ばれない。私が神に何かをしなくては、救われない。これが一般社会にも、様々な宗教に見られる、原理原則です。

 正しくなくとも、愛される。優れていなくとも、尊ばれる。私がしたなにかでなく、神がしたことにより救われる、これが福音です。

 福音・良い知らせとは、お得な耳寄り情報、人生を良くするヒント、成功のための指針、といった意味では決して使われませんでした。ましてや、ニュースのカルト宗教のように、努力すれば、お金を捧げれば、団体に貢献すれば、真理を悟れば、救われますよ、といった交換条件とは、全く意味が間逆なのです。(それらはある意味で分かりやすく、達成感や充実感を伴うかも知れませんが)

 福音とは、戦いに勝利した知らせ、に用いられた言葉です。勝った、達成した、成し遂げられた、すでに確定した喜びの知らせを指す言葉です。私たちが成し遂げるのでなく、神が成し遂げた、私たちがなにかするのではなく、イエスが十字架で言われたように、すでに神が「完了した」(ヨハネの福音書19章30節)素晴らしい知らせのことです。この家系図は、条件ではない、神の選びを表しているのです。

<私たちが行くのでなく、神が来る>

 この福音書の題にも注目したいと思います。この『マタイの福音書』を記したのは、9節に出てくる取税人から弟子となったマタイだとされています。取税人・罪人というのは、人々から嫌われ、神から、天国から、救いから、最も遠い人々だと考えられていました。けれど、遊女を装ったタマルの、遊女ラハブの、異邦人ルツの、不倫と殺人に巻き込まれたバテシェバの、貧しいマリアの家系に来られたイエスは、嫌われもので罪人のマタイの前に、取税所に来られたのです。

「9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。 9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。」(マタイの福音書

 一般に、天国は行くものと理解されます。宗教は言います。深く理解し悟れば、善行を積めば、実績を上げて団体に貢献すれば、壺や水を買えば(!?)、天国に行けると。

 もちろん、聖書の中にも、神の国に入る、という表現もあります。善い行いをすることを、神は心から喜ばれます。けれど、今朝の礼拝で祈った主の祈りを思い出していただきたいのです。「御国が来ますように。」私たちが天の御国に近づいて行くのでなく、神の国が私たちのところに来るのです。いえ、すでに来たのです。

 マタイ1章の系図は、神が私たちのところに、小さく見下されたもののところに、異邦人のところに、失敗や過ちのあったもののところに、罪人の世界に、神が来てくださったことを表しています。私たちの神は、来られる神です。私たちを、罪人を追い求め、ともにいる神です。かつての詩人は歌いました。

『139:8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。139:9 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、139:10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。』(詩篇)

 そして、マタイ1章で、ヨセフに対して、天使は言うのです。神がマリアの胎に来てくださったと。この救い主は、「『その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』と。神は来て、共にいてくださる方だと。

 先日親類の早すぎる葬儀を通して、教会の大切な方々が病に苦しむのを通して、なぜ、と何度も考えました。苦しみの意味や理由に関する本も読み、納得できる答えを探そうとしました。(そのうちのいくつかは、理解を助け、励ましを与えれく、とても有益でした。)けれど、聖書を開き、このマタイ1章を読んでいて、自分の心に光が指すのを感じました。

 『ああ、イエスは、私たちのところに、来られたのだ。罪人とともにおられたのだ。死ぬ必要のない方が、十字架で死なれたのだ。』キリストは、この世界に来てくださった。私たちのところに、短い命を終えたこどものところに、病に苦しむ方のところに、来てくださった。そして共にあってくださる。

 『もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。』(ローマ6:5〜10)とにあるように、キリストとともにあるものは、死で終わらず、キリストの復活とも同じ様になる。

 聖書は、良い知らせで溢れています。それは、キリストがこの世界に、罪人のところに、見捨てられた人のところに、私たちのところに、来てくださったことから始まったのです。

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