5月5日のメッセージ
おざく台教会2024年5月5日「たましいの糧1」
<聖書:ローマ人への手紙3章>
10 「義人はいない。ひとりもいない。」 (「正しい者はいない。」:新共同訳)
21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
<新しいメッセージシリーズ:たましいの糧>
たましいの糧、というシリーズで、聖書の中で、書簡と言われ、パウロ、ペテロ、ヨハネ、ヤコブなどが記した手紙の箇所から、毎回3章ほどのペースで進んでいきたいと思います。(進みが早く、日曜礼拝で触れることができるのはごく一部ですので、ご自身でもお読みいただければと思います。)
私たちには、食事による栄養素、からだの糧が必要です。同時に、趣味や交友関係など、こころの糧も欠かせません。そして、私たちに存在のより深いところを養う、たましいにも糧が必要です。私たちを、そんな深いところから生かしてくれるような聖書の言葉を、紹介していきます。
<正しさを用いる、正しくない私達>
ローマ1〜3章より選んだのは、旧約聖書から著者の使徒パウロが引用した『義人はいない。ひとりもいない。』という言葉です。一見すると、あまり元気が出る言葉ではないかもしれませんが・・・、私たちを縛り苦しめる事柄から自由にし、安心が与えてくれる言葉です。
ローマの1〜3章では、『義』という言葉が何度も繰り返されます。本来は、まっすぐとか、堅固、などを意味し、ある基準を満たした正しさ(や正義、)というニュアンスがあります。義であれば、(当時の文化では旧約聖書の教えに沿って生きれば)神と人とに認められ、受け入れられ、称賛される、恩寵を受け、天の国に入れられる、とされました。
正しい人、正しい意見、正しい行動、正当、正論、正解、などと言われるように、正しさは良いものです。一方で、正しさは、用いれ方によっては、人を苦しめ、傷つけ、束縛します。
例えば、戦争では、正しさ、正義、正当さが主張されます。日本がアジアを侵略をした際には、八紘一宇などの大義名分で侵略を正当化しました。ロシアも、イスラエルも、自らの正義を主張します。ところが、彼らの言う正しさの背後には、けっして正しいとは言えない動機や欲望が透けて見えます。
また、正しさだけを価値基準として主張しすぎると、様々な理由でその基準に合わない人を、否定したり、排除したりすることになります。(NHK連続テレビ小説の「虎に翼」では、伝統的な男性中心社会というかつてはある程度機能したかもしれない正しさの中で、新しい時代に向けて奮闘する女性たちの姿が描かれています。)正しさが、価値基準が、自分や、眼の前の人の存在の尊さを見失わせてしまうのです。
聖書のような、普遍的で、ある意味絶対的な正しさでさえも、用いられ方が大切です。
イエスの時代、宗教家は、旧約聖書の教えを守る自らを正しいとしました。聖書の正しさを振りかざし、いかに守れるかを基準に人の価値や存在を判断し、それによってその人達の扱われ方が変わりました。貧しい人、問題を抱えたり人、宗教的に歩めない人は見下され排斥されました。「正しくなければ受け入れられない・・・」『間違いがあっては裁かれる・・・』そんな恐れと不安が人々を満たし、良いものであるの聖書が、人々を縛り・支配したのです。そこで信じられる神は、私達の失敗を探し、批判し罰しようとす
る宗教家のような恐ろしい、身を隠したくなるような神です。その裏で、宗教家は、正しさを振りかざして、立場や利益を得て、自分の欲望を満足させました。
そのような姿勢は、最初の教会にも忍び寄ります。十字架だけではだめだ、旧約聖書の教えを守らなくては救われないのだ、と主張し、『ねばならない』『ではならない』と、かつて人々を苦しめた宗教支配体制を教会にも持ち込もうとした人々がいました。そのような教えから守ろうと、パウロは、ローマ人への手紙を記したのです。
イエス様も、パウロも、彼らの教えは(旧約聖書ですから)決して否定しません。それは正しいものです。けれど、その正しさを自分の欲望に用い、人々を束縛する人たちを厳しく批判しました。 正しさとは、義とは、求めるものであり、人を支配したり攻撃したりするために振りかざす武器でも、自分や人を縛るための鎖でもないのです。
だからこそ、今日の『義人はいない。(別訳では正しい人はいない。)』という言葉を、忘れないでいただきたいのです。書にはもちろん時代的な制限もありはしますが(例えば、豚を食べてはいけない、と旧約聖書にあるのです)、普遍的・絶対的とも言える正しさが示されています。
けれど、正しさを主張する人は、義人ではない、正しい人ではないのです。 (教師や牧師は、一般的には聖職とも言われます。けれど、痛みや、問題や、弱さや、醜さを抱えたただの人です。心にも、人格にも、罪の影響を深く受けているのです。)聖書の人物たちも、歴史の信仰者も、みなそうです。
義人など、正しい人など、神の前に立ちうる人など、誰もいないのです。ですから、誰かの言葉に支配されないでください。誰かと比べ自分を卑下しないでください。『ねばらない』『ではいけない』と自分を縛らないでください。繰り返しますが『義人はいない。』のです。
そして、誰もが正しくないからこそ、私たちにはキリストが必要なのです。
<正しいはずのキリストは・・・>
イエスがいつも一緒にいたのは、取税人、遊女、罪人、と言われる、正しくないとされた人たちでした。正しいはずのイエスは、正しさを振りかざしたりしませんでした。正しさで人を測ったり、さばいたりはしませんでした。イエスは無条件に彼らを受け入れ、食卓を囲みます。『義人はいない』からです。自分の力で、自分の功績で、神の前に立てる人などいない、それが出来たらキリストはいらないのです。だから、イエスが来てくれたのです。
『義人はいない』と言われた後で、宗教改革者マルチン・ルターが小さな聖書と読び、大切にした箇所が続きます。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(3章23〜24節)
正しい人はいないのだ、自分で神の前に正しく、認められ、受け入れられるような立派な人などいないのだ、ただただ、神が値なしに、交換条件なしに、私たちを、愛し、尊び、受け入れてくれるのだ。
キリスト教とは、私たちの正しさで神に受け入れられる宗教ではないのです。正しい神が、正しくない私たちであっても、十字架で人々の罪や過ちを背負ってまで、受け入れてくれる、そのような宗教なのです。
誰かのようにならなくてはと、人と比べ、自分を否定しなくてもよいのです。誰かの言葉に支配されなくてもよいのです。私たちが見るべき、目指すべき、義の、正しさの基準は、キリストだけです。どんな聖人も、キリストとは比べられません。だから、安心して歩むのです。私たちのうちに義人はいないのです。本当の義人とは、ただただキリストだけです。
私たちは、ただその方に信頼すればよいのです。「義人はいない。一人もいない。」、と言いながら、パウロは少し前で、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)と言います。自分を縛らず、人に支配されず、ただただキリストの姿を目指し、私たちを愛し尊ぶ、神のまなざしに信頼しながら、あなたらしく歩んでください。