9月14日のメッセージ

おざく台教会2024年7月14日「たましいの糧⑨」

<聖書>コリント教会への手紙第一10章13節

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

<ファミリータイム>

詩篇8篇3〜4節 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれに心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

 

最近いつ星空を見上げましたか?理科の授業では、星を探したり、宇宙ステーションを見たりする宿題を出します。古代から人類は天文に関心を持ち、星や、太陽や、月の動きを観察してきました。天文学は、神の造り給うた世界を探求することで、神の素晴らしさを知る学問でした。一方で、古代の人は宇宙の中心は地球であり、宇宙が地球の周りを回っているのだと考えました。そのように見えますし、(そう読むことも出来る聖書の記述もあり)、天動説でも、複雑な計算で星の軌道も説明できます。

けれど、キリスト教の司祭も努めた学者コペルニクスは、神が世界をお造りになったのなら、その仕組みはより美しいはずだと考え、地球が太陽の周りを回る地動説を唱えます。コペルニクス的転換、という言葉がありますが、その背後には、神ならより美しく素晴らしいものをお造りになる、という彼の信念があったのです。

天文と並び、神の創造の素晴らしさを探求する学問がもう一つありました。それは人体です。人々は、天文と同時に、人体の精密さ、仕組みの素晴らしさに、神の業を見たのです。

神が太陽を、月を、星を、天全体を美しく動かすように、人間を素晴らしい仕組みを持って日々生かしめてくださっている。心臓が動き、タンパク質が合成され、電気信号は伝わり、意思を持ち、思考し、互いに意思疎通まではかり、様々なものを生み出していくわたし達人間。このような素晴らしい仕組みは、今日の科学でも再現できない、まさに神業なのです。

もちろん、病気や衰えは避けられません。それでも、日々内側に素晴らしい仕組みが働き生きている。それはわたし達への神の業であり、神がわたし達に心を留め、顧みてくださっているからです。

古代の詩人は、星を見上げ、圧倒されながら言いました。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれに心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」あなたはこの世界を美しく造られた神が心を留め、顧みている、大切な方です。

<試練と誘惑>

もうすぐパリオリンピックですね。今日の聖書の言葉は、アスリートも好む箇所で、「神は乗り越えられない試練は与えない。」(競泳の池江選手)「試練は乗り越えられる者にしか与えられない。」(スケートの羽生選手)など、様々な選手に引用をされます。病気や怪我などの様々な逆境にあいつつも、目標を目指し、努力を重ねる姿には驚かされます。一方で、体や心の強いスポーツ選手や、使徒パウロのような特別な人物だからそんな風に言えるのだ、実際は乗り越えられない試練だらけではないか、願わくは試練になどあわせないでほしい、わたしには関係のない言葉だ、といった正直な思いもあります。

 

しかし、パウロはこれを特別な人ではなく、愚かであったり、未熟であったり、高慢であったり、たくさんの問題を抱えたコリント教会の人々に告げたのです。

 

「試練」と聞いて何を思い浮かべますか?怪我や病、問題、困難、試験などでしょうか、それらを克服し、目標を達成する、成功を収め、良い結果を得る、そんな文脈でこの言葉は引用されます。

けれど、最初に語られた文脈は少し違うのです。「試練」という言葉はペイラスモスというギリシャ語で、「試験」も意味しますが、もう一つ「誘惑」という意味もあり、文脈により翻訳し分けられます。

つまり、試練とはただの困難や問題ではないのです。困難や問題を通し、わたし達が磨かれ成長する機会としては「試練」と翻訳される場合もありますが、わたし達の心の危機、魂の危機、信仰の危機として、「誘惑」とも翻訳されます。この文脈では、信仰者の心を揺るがし、くじく、誘惑として訳されるのが適切です。

 

怪我や病気で願っていた結果が出るか、試験や資格に合格できるか、問題や困難が解決できるか、(それらは大切なことであり、祈り願うことは間違いではありません。)、そこがパウロが真に言いたかったことではないのです。どのような結果であれ、私達の心が、魂が、信仰が、眼の前の困難や問題に、押し流されない、どんな状況により揺るがされ誘惑されても、信仰が、希望が、愛が失われることがない、それがこの言葉のポイントなのです。

<「耐えられない試練」はない>

この箇所をよく読んでみたいのですが、乗り越えられない試練、ではなく、「耐えられない試練」と訳されています。実際は、「乗り越える」、「耐える」、と両方の言葉が出てくるため、どちらにも翻訳できます。ポイントはそれを通り抜けたり、超えたりすることです。

 

ただ、引用されない箇所もあります。それが、「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」です。「脱出の道」とは、文字通りには、道という言葉はなく、ただ、脱出です。横にそれると言うより、試練・誘惑をのり超える、耐えぬく、方法、手段、道、などを神がしっかりと備えてくれる、という意味です。

 

また「 耐える」という言葉は、下から支える、下で運ぶ、という言葉で、ギリシャ語の辞書には、流れに押し流されないように水面下で支える、という言葉がありました。

試練とは、誘惑とは、自分で乗り越えるのではないのです。下から支え、押し流されることなく、超えさせてくださる存在が必要なのです。

<神は、ではなく「真実な神は」>

また、最も大切な言葉がしばしば忘れられています。「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。」

ただ「神」とは言われていないのです。神は、わたし達の運命を弄んだり、苦しみを与えたりする神ではないのです。神は「真実な方」と言われています。

真実とは、誠実とも、信仰とも訳される言葉です。旧約聖書のヘブライ語では「ヘセド」、永遠の愛を意味する言葉で、結婚式で、生涯の愛を誓うようにに、相手の状態によらず、愛し抜き、見捨てない樣子を表します。

 

耐えられるように、押し流されないように、いつも共にあり、忍耐強く励まし、けっして見捨てず、献身的に支え続ける、そのような神です。

愚かで、高慢で、情けない、コリント教会であっても、わたし達であっても、見捨てず、見放さず、支え続け、困難や誘惑のその先へとたどり着かせてくださる神の存在が有るのです。この箇所は、わたし達の奮闘ではなく、神の奮闘が描かれているのです。

 

夏のニュースでは、海水浴で、子どもが親に抱きつきながら、波を超えて遊んでいる場面が流れます。一人では流され危険ですが、自分を支えてくれる存在により、自分より大きな超えていくことが出来る。大切なのは、自分を支えるその存在にしっかりとつかまっていることです。

 

わたし達の神は真実な方です。わたし達に心を留め、けっして見放さず、見捨てず、共にあり支えてくださる方です。 困難や苦しみに直面する時も、わたし達の内側のいのちを守ってくださる方であり、やがての死さへも、乗り越えさせ、その先のいのちへとたとりつかせてくださる方です。

 

「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」イザヤ書46章3〜4節

 

あなたはそのような神に、想われ、心留められ、顧みられているのです。あなたを支える手を覚え、どうか安心して、毎日を歩んでください。

 

フットプリントという有名な詩も添えました。この箇所と関連があるかとも思いますので、今週時間を取って読んでみてください。

 

「足跡」(Footprints)

「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主と共に、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上に二人分の足跡が残されていた。一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。

これまでの人生の最後の光景が映し出された時、わたしは、砂の上の足跡に目を留めた。

そこには一つの足跡しかなかった。

わたしが人生で一番つらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。

『主よ。わたしがあなたに従うと決心した時、あなたは、全ての道で、わたしと共に歩み、

わたしと語り合って下さると約束されました。

それなのに、わたしの人生の一番つらい時、一人分の足跡しかなかったのは何故ですか。

一番あなたを必要としていた時に、あなたが、何故、わたしを捨てられたのか、

わたしには分かりません。』

主はささやかれた。

『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みの時に、足跡が一つだったのは、わたしがあなたを背負っていたからだ。』」

 

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