7月21日のメッセージ
おざく台教会2024年7月21日「たましいの糧⑩」
<聖書>コリント教会への手紙第一13章3〜8節
3 愛がなければ、何の役にも立ちません。 4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 6 不正を喜ばずに真理を喜びます。 7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 8 愛は決して絶えることがありません。
13 いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番優れているのは愛です。
<ファミリータイム>
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(第2コリント4しょう18節)
目に見えないものは信じない、という意見があります。たしかに、しっかりと見極める姿勢はとても大切です。
ただ、科学を学んで気づいたのは、私達の目は、限られた光しか捉えることのできず、わたし達が知覚できないものがこの世はに溢れているということです。目に見えないけれど働く力もたくさんあります。例えば、電磁力、そしてりんごの木のエピソードで有名なニュートンが発見した、万有引力です。
名前の通り、すべてのものは、あなたと椅子は、あなたと隣の人は、あなたと地球は互いに引き合っています。万有引力は質量に比例するため、地球はとても大きな力でわたし達を引き寄せていて、それが重力です。そのため、地面からジャンプしても宇宙に飛んでいかず、地面へと引き戻されるのです。わたし達の周りには、わたし達には見えないものであふれ、それらによってわたし達は生きているのです。(ニュートンは信仰深い人で、この世界の驚くべき物理法則を解き明かすことが、目に見えない神の素晴らしさを知ることだったのです。)
サン=テグジュペリの小説「星の王子さま」には「本当に大切なものは目には見えないんだよ」という有名な言葉がありますが、神様の存在、天国の存在、など大切でありながら、目には見えない、捉えきれないものが、たくさんあります。
そして、神様の存在は、地球がわたし達を引くのに似ています。目には見えない神はとても大きな力で、大きな愛で、わたし達を求めているのです。そんな目に見えない神の、目に見える現れの一つに、教会があります。わたし達が、教会が、小さなきらめきほどであっても、神の愛を表す存在であることを、心から願っています。
<神の素晴らしさをあらわすものは?>
今日の聖書の言葉は、結婚式などでも読まれる、有名な愛の箇所です。最初はどんな文脈で語られたのか、どうして他の教会ではなく、コリント教会へ向け語られたのか、それがこの言葉を理解する鍵となります。
神業という言葉があるように、極めて優れたものを形容する時に、神、という言葉をつけて、敬意と称賛の気持ちを表現します。(最近は神対応、神回、神動画、というように、何にでも用いるようです。)
確かに優れたもの、特別なものには、人は神的な何かを感じるようです。荘厳な礼拝堂を見て、美しい賛美歌の合唱を聞いて、見事なキリスト教美術に触れて、それらが心に迫り教会に足を運んだ、という方もおられます。『わが魂(たま)いざ讃えよ』の賛美歌の歌詞のように、大自然の雄大さや脅威などからも、神を感じるでしょう。
そんな意味では、コリント教会は、他の教会と比べても、神の存在を感じさせる要素が多くありました。集団として大きかった印象を受けますし、社会的に地位のある人や、影響力や特別な能力のある人もいたようです。
けれど、パウロは1〜3節で言うのです。特別な才能も、立派な善行も、愛がなければ、見せかけや、自己承認のためなら、全てを台無しにしてしまう、と。
実際、コリント教会の大きくなった勢力も、豊かな才能も、高慢や、派閥争いや、差別の原因となり、教会は神を全く感じられない場所になっていました。
そこでこの愛の箇所を記したのです。4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 6 不正を喜ばずに真理を喜びます。 7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 8 愛は決して絶えることがありません。
この愛の箇所は、コリント教会とは正反対の姿でした。コリント教会は、不寛容で、不親切、妬みや自慢や高慢ばかり。礼儀に反し、自分の利益ばかりを求め、人の悪を指差し、不正に溢れていたのです。
愛には他にも、様々な要素がある中で、このような要素をあげているのは、愛とはコリント教会と反対の姿であるという、コリント教会の高慢な人々への、手厳しい皮肉なのです。
パウロは、目せかけの行動や、能力や知識よりも、愛の姿こそが、神の素晴らしさを表すと言ったのです。イエス・キリストはたくさんの奇跡を行いました、人々の胸を打つ数々の説教を語りました。けれど、人々が、これこそが神の業だと大喜びでイエスを祭り上げようとした時、イエスは、身を引いて隠れました。自分の奇跡を隠そうとさえしました。
かわりに、これが神の業だと、貧しい人、見下された人、に寄り添いました。嫌われた人、罪深い人などと食卓を囲みました。触れてはいけないはずの皮膚病人に、その手で触れました。そして、これこそが神の業だと、十字架にかかりました。
コリント教会のような魅力的な能力、豊富な知識、繁栄した共同体、それらはとても良いものです。けれどそれがほんとうの意味で神の素晴らしさを表すのではないのです。神の素晴らしさを表すのは、
神であるキリストが人となった謙遜であり、
聖いキリストが汚れた人に寄り添った慈しみであり、
正しいキリストが、正しくない者のために死なれた十字架の犠牲です。
教会はそのようなキリストに倣う時、神の素晴らしさを表すのです。
実際初期の教会が、人々が集ったのは、才能や魅力ではない貧しい人に寄り添い、友となる、キリストの姿に倣っていからだとされています。かれらは愛をもって、神の素晴らしさを表したのです。
<愛とは?>
ただ、正しく愛を理解したいのです。「愛をもって行っているのだ」と、一方的に、上から、押し付け、支配しようとしたりする関わりがあります。「愛がない」という言葉を脅迫のように用い、自分の甘えや依存の言い訳に使われたりもします。
愛を表す言葉は、エロス(愛情)、フィレオー(友愛)など、ありますが、聖書で使われる愛(アガペー)とは、もともとはペットを可愛がる、程度の意味の言葉でした。そこに、信仰者たちは、歴史を通して示された神の愛の意味を乗せて、用いたのです。
そこでただの言葉は、それでもの愛、無条件の愛、自己犠牲の愛、といった意味を持ちました。愛とは、神がわたし達に示した愛を意味するのです。(だから畏れ多くて、気軽に使えないのです。)
聖書でいう愛とは、キリストの心であり、キリストの姿であり、キリストの行動であり、キリストの十字架なのです。
パウロがわたし達を見たら、愛とは何だと言うでしょうか?もしかしたら、コリント教会以上に言われるかもしれません、でもそれで良いのです。パウロは完璧であれとは言っていないのです。「愛を追い求めなさい。」(14章1節)と励ましているのです。
限界はあるでしょう。自分自身の古い性質が邪魔をしたり、状況が悪すぎて心がついていかない場合もあるかもしれません。それでもいつも心に留め、「もしキリストならどうするか」それを自分に問いながら歩みたいのです。
人目を引く才能や、華やかな成果がなくても、良いのです。ほんの僅かでも、キリストの愛に倣うなら、神の素晴らしさの小さなきらめきをわたし達は表すことが出来るのです。それは、いつまでも残るものとして、神がしっかりと受け止めてくださいます。
