毎日の聖書8月22日〜
おざく台教会毎日の聖書 8月22日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
8月22日(月)エステル記3章
2節「それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対してひざをかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった。」
人間は、誰かにあがめられたり、誰かをあがめたりするのが大好きです。けれどそれは、私たちの心を本当に崇めるべき方から逸してしまう危険があります。あなたはどちらの弱さがありますか?今、静まって自分の心を探り、本当に崇めるべき方を祈りたたえてみてください。真にあがめるべき方を知っていれば、高慢や盲従からは自由なのです。
「われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。」詩篇99篇9節
8月23日(火)エステル記4章
14節「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
人間的には従いたくない、チャレンジがあります。しかし、人の都合の反対こそが神の御心の場合も多いのです。そして神の御心こそが、私達にとって最善なのです。
何にでも挑めばいいわけではありません。けれど、信仰のチャレンジが訪れた時、「もしかすると、この時のためであるかもしれない。」というモルデカイの言葉を、自分自身に問いかけてみて下さい。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」伝道者の書3章1節
8月24日(水):エステル記5章
1節「さて、三日目にエステルは王妃の衣装を着て、王室の正面にある王宮の内庭に立った。王は王室の入口の正面にある王宮の玉座にすわっていた。」
3日間の断食、つまり祈りによって整えられ、エステルは命を懸けて王の前に出ました。エステルは神様からのチャレンジにしっかりと応えたのです。あなたが神様からチャレンジされつつも、応えていないことはありますか?それについて祈るのを避けてはいませんか?もしあれば、もう一度祈りはじめ、向き合ってみてください。
「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」第2コリント4章16節
8月25日(木)エステル記6章
1節「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。」
エステル記には、神、主、祈り、といった言葉は出てきませんが、この場面からも神である主がエステルたちの祈りに応えてくださったことが分かります。神が見えない、感じられない時も、失望しないでください。神はいつも共におられ、あなたの祈りを聞いてくださいます。
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」エペソ6章18節
8月26日(金)エステル記7章
2節「この酒宴の二日目にもまた、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。王妃エステル。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」」
一日目ではなく、二日目にこそ、王の心も状況も、神によりすっかり整えられていました。私たちは、どうしてもすぐに結果や答えを求めがちです。もちろん、焦る気持ちはわかります。早く今の状況から楽になりたいでしょう。けれど、私たちは時に、「二日目」を、神の最善の時を、祈りつつ待つ必あるのではないでしょうか?
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」伝道者の書3章11節
8月27日(土)エステル記8章
16節「ユダヤ人にとって、それは光と、喜びと、楽しみと、栄誉であった。」
ユダヤ人はこの時、具体的な神の救いを見ましたが、長い歴史を見れば、敵の手に落ちる時も多々ありました。しかし、歴史のゴールである天の御国では、光、喜び、楽しみ、栄誉が神の民を待っているのです。良い時も悪い時も神を信じ、希望を持って歩んでください。
「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5章3〜5節
8月28日(日)エステル記9&10章
28節「また、この両日は、代々にわたり、すべての家族、諸州、町々においても記念され、祝われなければならないとし、これらのプリムの日が、ユダヤ人の間で廃止されることがなく、この記念が彼らの子孫の中でとだえてしまわないようにした。」
出エジプトを記念した過ぎ越し祭り、エステル記の救いを記念したプリムの祭り、など神の民は神の救いを具体的に記念し、祝いました。主日礼拝もまた、キリストの十字架と復活による救いを記念する祝いなのです。この日曜日、キリストを記念する心で礼拝に臨んでみてください。
「 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」」第1コリントルカの福音書11章24〜25節