8月28日のメッセージ

2022年8月28日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ②〜

 

<聖書:マタイの福音書2章>

2:11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」

 

<福音〜幼子として生まれた救い主〜>

 マタイの福音書から、良い知らせという意味を持つ、「福音」(ギリシャ語で、ユーアンゲリオン・エヴァンゲリオン、英語でGospel・ゴスペル)について教えられ、一般社会の理論とも、典型的な宗教とも違う、福音の素晴らしさを味わっていきたいと思います。

 

 今日のマタイ2章では、博士の旅と礼拝、ヘロデ王の戸惑いと陰謀、幼児の虐殺とエジプトへの亡命、が記されています。ところが主人公であるはずの、イエス様は何もおっしゃいません。何も行動なさいません。それもそのはず、まだ、赤子・幼児だからです。

 いつも不思議なのです。救い主キリストは、旧約聖書の印象でも、また当時の人の期待でも、輝かしい姿で、大軍を引き連れ、偉大な王様として、天を裂いてやってくる、そのような力強いイメージがあります。はじめから大人の完成された姿で来ていれば、人々も喜んで拝むでしょうし、効果的・効率的です。

 

 けれども、東方の博士達が出会ったのは、赤子・幼子でした。(クリスマスの絵では、馬小屋の飼い葉おけに寝かされていますが、もしかしたら、もう馬小屋の飼い葉桶に寝かされているのではなく、1歳ちょっとまで、大きくなっていたかも知れません。)幼子とは、おむつも取れていない、言葉もまだまだ話せない、食事も、着衣も、排泄も、大人の助けを必要とする、力のない存在です。聖書の文脈では、幼子は、成長していない、知識がない、善行がない、社会的地位がない、という意味で、否定的に用いられます。それなのにマタイ2章では、幼子、幼子と、9回も繰り返されています。(ルカの2章でもイエス様を指して同じく9回)このように、イエス様が、低く見られていた、幼子として生まれてくださったこと、このこともまた、私たちのとっての良い知らせ、福音なのです。

 

<幼子となり、幼子のように歩み、幼子を招く方>

 もう一つのクリスマス物語、ルカの福音書では羊飼いが馬小屋にやってきて、飼い葉桶に寝ている幼子(みどりごという表現もされています)を拝みます。(有名なクリスマスのイメージですね。)

 羊飼いは、当時社会的にも宗教的にも低く見られ、神から遠い存在とされていました。(その意味では幼子と似たような存在なのです。)ですからもし、イエス様が王宮に生まれていたら、または、神殿に生まれていたら、彼らはそこには決して入れませんから、救い主と出会うことは出来なかったでしょう。

 また、イエス様が大人として、輝かしい王様として地上に来ていたら、羊飼いは決して前に出ることは出来ず、列の一番最後に回されたのは確実です。けれど、キリストが、片田舎の町ベツレヘムの、しかも家ですらない、馬小屋で幼子・みどりごとして生まれてくださったから、見下されていた羊飼いが一番に出会うことが出来たのです。

 

 当時は、地位や名誉や財産や健康、そういったものが神から愛と祝福を受けている、神の国に真っ先に入る証拠と考えられていた。けれど、イエス様はそれとは反対に、立場や、評判や、権力とは無縁、むしろその正反対の、小さく・低くされた幼子のあり方を、その生涯を通して、貫きました。

 イエス様はやがて、羊飼いのよう、低く見られ、痛み傷ついていた人にやがてこう語りかけます。

「11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイの福音書)

 

 そして、王宮や神殿ではなく、嘆き悲しむ人や、苦しみ悩む人、のところにいつもいました。権力者や政治家、宗教家でなく、貧しい人や、差別された人、罪人として嫌われ見下された人と共にいました。もちろんイエス様は知恵も力もありました。しかし、その歩みは、自らを低くし、まるで知識も力もない存在のように、低くされた人と歩みました。その生涯を通して、心優しく、へりくだり、「幼子」のようであってくださったのです。だからこそ、幼子に代表される、地位も名誉も力もない、低く見られていた人々でもイエス様に出会うことが出来たのです。

 

 聖書にこんな場面があります。18:15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。18:16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(ルカの福音書

 たとえなんの功績もなかろうが、人からどれほど見下されようが、虐げられ、片隅に追いやられようが、神は幼子のように小さくされた人を招いているのだという、メッセージです。

 イエス様が幼子として生まれたからこそ羊飼いは、幼子のように歩まれたからこそ罪人たちは、そして力ない幼子のように十字架にかけられたからこそ十字架上の強盗は、キリストに出会えたのです。

 

「2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」ピリピ人への手紙

 

 これは私たち一人ひとりに出会うためでした。自分なんて、正しくなく、力もなく、善行もなく、知識もなく、人からも見下されている、自分は神と出会う資格などない・・・そう思うときには、イエスが幼子として生まれてくださったこと、幼子のような姿勢で歩み、なんの功績もない人たちを招かれたこと、そして、見下され、否定され、力なく十字架にかかり罪を背負われたことを思い返して下さい。イエスは心優しく、へりくだり、幼子のようにあなたと出会ってくださるのです。

 

<幼子として、ご自身を委ねられた>

 マタイ2章では、イエス様は拝まれるのも、殺されそうになるのも、なされるがままです。イエス様は、幼子のように、ご自身を私たちに委ねる方です。ヘロデ王が殺そうと思えば、簡単に殺せてしまう、(だから神様は逃してくれた)そのような、弱く、頼りない、危険な姿でこの地に来られたのです。一方で、博士たちはこの幼子を拝みました。殺すか、拝むか、私たちに人間に委ねられたのです。

 

 イエス様はその生涯でも、ご自身を委ねる幼子の姿勢を貫きました。神様ですから、人々の心を魔法のように変えることも出来たかも知れません。宗教のように恐れや不安に訴え群衆の心をコントロールしたり、歴史の王のように、剣を突きつけて服従か死かを迫ることも出来ました。

 けれど、イエス様はただ愛を表し、真理を語り、後は人々に任せたのです。受け止める人もいれば、嘲笑したり、暴言を吐いたり、殺そうとしたりする人もいました。けれど、ご自身を相手に委ね続けたのです。 そして、最後の十字架でも、ユダヤ人の陰謀と、ローマ兵の手に落ち、幼子のように無力に十字架にかけられています。 そして、十字架をどう受け止めるか、私達に委ねてくださったのです。

 

 ヘロデが幼子を殺そうとしたように、私たちも十字架のイエスを無視し、軽んじ、無駄死にさせることもできるのです。同時に、博士たちが、幼子を王として拝み、宝を差し出したように、十字架のイエスの前にひざまずき、あなたこそわたしの神ですと、拝むこともできるのです。日々どう応えましょうか?

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