5月12日のメッセージ

おざく台教会2024年5月12日「たましいの糧②」

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<聖書:ローマ人への手紙5章>

6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

<ファミリータイム:母の日の起源>

今日は母の日です。この習慣は教会から始まりました。19世紀のアメリカは、戦争の真っ最中、北と南に分かれて戦い、多くの人が倒れて、いのちを失いました。そのような状況の中、アン・ジャービスさん(牧師の妻でもありました)を中心とした女性たちが、敵味方関係なく負傷兵の治療に当たりました。

アンさんの死後、娘さんが追悼記念会を主催し、アンさんが好きだった白いカーネーションを教会に飾り、アンさんを始めとした女性達が、神と人とを一生懸命に愛したことを記念しました。

あくまで傾向ですが、男性が争いばかりを起こしがちな一方で、女性は愛や柔和さや平和を示すのに非常に長けています。母の日というのも、本来の意図としては、女性の存在を尊び、その素晴らしい姿に倣う日であるのです。おざく台でも、全ての女性への感謝を込めてお花を用意させていただきました。

 

<愛するために、愛する前に、欠かせないこと>

みなさんはどんな一週間を過ごされましたか?きっと、身体も、心もすり減らしながら、懸命に歩んでこられたと思います。

先日、◯◯さんの施設に行き、お話してきました。少し苦手な方がいて、愛さなくてはと思いつつも、上手く出来ず、気持ちもついていかず、自分はだめなのでは、相手にも、神様にも申し訳ないと、落ち込んでおられました。(その時点で十分素晴らしい心をお持ちだと思います。)

 

私達の眼の前にはやるべきことがあり、愛すべき人、必要を抱えた人がいる。それなのに、愛や思いやりが湧いてこない時もある。無理をして行動しますが、心は伴わず、上手く行かず、いらだち、自分も周囲も苦しくなる、そんな悪循環を、何度も経験してきました。

 

聖書には、あなたの隣人(となりびと)を愛せよ、とあります。施設の◯◯さんと、なかなか難しいね、と話していた時、◯◯さんが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22章39節)、だよね、とおっしゃいました。なるほど!と思いました。

人を愛する前に、まず大切なことがあったのです。それは自分自身を愛することです。新共同訳では「隣人を自分のように愛しなさい」とあります。自分で自分を大切にできなければ、自分を愛おしく思えなければ、他の人を愛することは難しいのです。私達は無いものは、与えられないのです。自分が満たされたから、人をも満たすことが出来るのです。

 

また、自分をどのようにして愛しているかも大切です。愛には種類があると言われます。理由がある「だから」の愛と、理由を越えた「それでも」の愛です。

自分はこれが出来る、このようなものを持っている、「だから」自分を愛する、という愛。「だから」の愛は、自分も相手も同じように見ます。逆に、それらを失ったり、失敗したりすると、自分を、相手を、愛せなく、受け入れられなくなります。

だからこそ、今日の言葉、理由を越えた、キリストの「それでも」の愛を知ってほしいのです。

 

6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

今日の箇所で、手紙の著者パウロは、神の愛をこのように表現しました。ここには愛される理由がありません。(逆に、愛されない、理由ならたくさんあります。)

 

この箇所にあるような、弱い人、不敬虔な人、罪深い人、正しくない人・・・「それでも」イエス様は、そのような人と一緒にいました。

 

この手紙を書いたパウロは、昔キリスト教徒を迫害する人であり、多くの信仰者を死に至らしめました。「それでも」イエスはパウロに現れ、語りかけました。

 

宗教指導者は、妬みと保身から、イエスを十字架にかけました。「それでも」イエスは十字架の上で、自分を殺そうとし、あざ笑う人たちのために「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)と彼らの赦しと救いを求めて祈りました。

 

このように人を愛しなさいとは、とても言えません。けれども、このように自分が愛されている、ということだけは知っておいてください。どれだけ弱く、どれだけ愚かで、どれだけ罪深くても・・・神が愛さない人、その人のために十字架で死ななかった人はいないのです。

 

もちろん、失敗や、愚かさや、醜さ、過ちは、ないほうがいいでしょう。れど、生きていれば、有益なことなど何もできなくなる時が必ず来ます。失敗や、過ちを繰り返し、人に迷惑をかけ、呆れられ、こんな自分などいないほうがいいのでは、そう思う日が来るかもしれません。

けれどそのように、自分に失望するときにこそ、この今日の言葉を思い出してください。あなたは、文字通りキリストが命を捨てたほど、身代わりに死んでも惜しくないと思うほど、大切な人なのです。

自分へ向けられた「それでも」の愛を、あなたへ十字架の愛を、受け止めてこそ、ほんとうの意味で「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という道が開かれるのです。

 

今週の黙想

いつもより身体を休める時間を長くしてみてください。小さな楽しみで、自分の心を労ってください。今日の聖書の言葉をもう一度読み、神のあなたへの「それでも」の愛に思いを巡らしてみてください。

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