8月7日のメッセージ

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2022年8月7日  聖者が嘆きの歌を歌う時④〜神の熱心が〜

<ファミリータイム:エズラ記>

1:1 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。1:2 「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。・・・7:6 エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜ったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。・・・7:9 すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。

 

<聖書:イザヤ書9章7節>

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

 

<支配による閉塞感の中で>

 私たちは、圧倒的な力に支配され、苦しめられ、その状況は永遠に変わらない、そう諦めてしまっていることはないでしょうか?ある人にとっては、文字通り国家や支配体制であり、別の人にとっては、生活の問題や病であり、または、自分の内側の罪や悪かもしれません。聖書の中でも、神の民は、エジプト・バビロン・ローマなど圧倒的な力により支配され、苦しめられました。また、罪の力、死の力に、悩まされ、脅かされ、その支配からの開放を、救いを神に願い求め続けました。聖書のテーマには、支配からの開放があります。今の状況は変わらない、罪の生活から抜け出せない、死が私からすべてを奪う、そう諦めてしまっているなら、エズラ記は、エズラ記に表される神の熱心は、私達にとって、希望となる箇所です。

<王の心さえも動かす方>

 バビロニア帝国で捕囚となった人々は、バビロニアの繁栄と権力を見て、その支配は永遠に続く、困難と屈辱はいつまでも終わらないかのように思われました。神さまはエレミヤを通して、70年後に開放すると約束してくださった。けれども、その約束が虚しく響くほどの圧倒的な支配です。 宗教行為を司る祭司の家系ですら、その神さまの約束を諦め、バビロン生活や文化に流され、自分のアイデンティティを失ってしまいました(エズラ2:59〜63)。バビロンの反映と権力はそれほど圧倒的だったのです。(難しい状況に対して、罪や死の力に対して、私達は同じように考えているかもしれません。そして、自分自身を見失ってはいないでしょうか?)

 けれど、私達が諦める時も、神は諦めないのです。「エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。」(イザヤ37:32)人が諦めても、神は諦めない、人には無理でも、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:7)のです。

 そして、神様はペルシャを起こし、バビロニア帝国を敗ります。そして、ペルシャのクロス王に働きかけ、最初の捕囚から70年後、BC586年に王の命令により、エルサレムへの帰還、神殿の再建命令が出されるのです(エズラ記1章)。

 そこで何度かに分けての帰還がなされました。ダビデの子孫ゼルバベルや、預言者ハガイ、預言者ゼカリヤ、などの指導によって神殿が再建され、それから学者エズラによって律法の徹底がなされ、ネヘミヤによって城壁が(国家が)復興されます。そこには神様の熱心な働きがありました。

 クロス王だけではありません、ダリヨス王も、アルタシャスタ王の心も神様は動かすのです。箴言21:1には「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」とあるように、神さまが王様の心さえも動かすことができるのです。(やがて、初代教会を迫害していたローマ帝国も、コンスタンティヌス帝の時代に、その信仰が許され、ローマの国教となりました。)神様は状況すら変えてくださることが出来るのです。

 もちろん、全てが私たちの願うように、都合よく進むとは限りません。そうならば聖書の立派な人達も、歴代の信仰者達も、迫害に苦しんだり、殉教したりせずにすんだでしょう。けれど、一つ言えるのは、神様は高慢な王の心すら変えることができるのです。私たちの難しい状況も変えることができ、頑ななあの人の心すら開くことができ、弱く醜い私たちの心すら新しく造り変えることが出来るのです。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:7)のですから、私たちではなく神が成し遂げるのですから、決して諦めないで下さい

 

<私たちの上に御手をのばす方>

 今日の箇所では、律法に通じた学者エズラが登場します。最初の帰還から60年後、神殿は再建されましたが、神様に従えるように、神様の語りかけ、律法をより深く知る必要があった。エズラはそのため帰還を決意します。

 ただし、帰還には、許可が必要でした。同行者も費用も必要でした。途中の長い旅には、危険もありました。人生を、いのちをかける一大決心です。エズラも不安だったでしょう。けれど、エズラの帰還に関する短い箇所に、神の御手が彼の上にあった、と5度も繰り返されました。神の御手が上にあり、王がエズラの願いを叶えてくれた。神の御手が上にあり、エズラに仲間が与えられた、神のみ手が上にあり、エズラを道中の危険から守ってくれた。神がその手をエズラに伸ばし、状況を整えてくださり、無事帰還が実現したのです。

 そして、忘れないでいただきたいのですが、同じ神様の御手が、恵みの御手が私たちの上にもあり、気付いても気づかなくても、悪いものから守り、倒れないように支え、いのちへと導いてくださっている。

 「139:8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。139:9 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、139:10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇)神様は私たち一人ひとりに熱心な方です。「139:8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。139:9 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、139:10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇)神様は私たち一人ひとりに熱心な方です。

 

<本当の開放>

 私たちは、状況の変化を、困難や苦しみからの解放を願います。それは間違いではありません。けれど、バビロンからの開放には真の目的がありました。もう一度新しい心で、神様と歩むためです。

 

 バビロン捕囚の経験で、偶像礼拝はほぼ無くなりました。指導者ゼルバベルや預言者ハガイ・ゼカリヤの尽力で神殿が立ちました。エズラは熱心に律法を教えました。ネヘミヤの奮闘で、城壁が再建され、宗教国家としての安定しました。捕囚前よりは、捕囚のときよりは、はるかに状況が改善しました。

 けれど、捕囚前の時代に、神殿と、律法と、国家が備わっていた時でも人々が堕落したように、民は別の方法で堕落し、欲望にまみれ、神と神の言葉を蔑ろにしました。私たちは肝に銘じておきたいのですが、神殿も、律法も、城壁も、つまりは状況の改善だけでは、人の全ては変えられないのです。

 エジプトの支配、バビロンの支配、ローマの支配、それらは、神に敵対する勢力を現すのと同時に、私たちを支配する悪を、罪を、死の力を意味しています。私たちは、困難な状況から、それぞれのバビロンからの開放も願いますが、内側の罪から、神に背く悪から、解き放ち、神様と親しく歩むこと、それが神様の願いなのです。捕囚の頃の預言者エゼキエルは、本当の開放について、約束しています。

「11:19 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。11:20 それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」(エゼキエル書)

 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの民となる、この表現は、エレミヤ書で、エゼキエル書で、ゼカリヤ書で、繰り返し、繰り返し、語られている希望であり、私たちの本当の必要、神様の何よりの願いです。

 この約束はそれからさらに500年後、エルサレムの十字架の上で実現します。バビロンからの帰り道を熱心に

作られた方は、罪と死からの帰り道を、十字架にかかり作られた。そして、言うのです。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)神様の私たちへの熱心は、実にキリストの十字架での身代わりの死という形で表され、本当のバビロン捕囚から、罪の力、死の力による捕囚から、開放してくださった。 そして、「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)

 キリストを信じたなら、洗礼を受けたらなら、ほんとうの意味での捕囚からは開放されているのだ、そのことを忘れないで下さい。バビロンにいても、エルサレムにいても、神と親しく歩むことこそが、私たちの幸いなのです。

 そして、私たちの上には神の御手がある。バビロンにいても、どこにいても、神の守りと支えがある。

そして、どのような苦しみの中でも、自分ではどうしようもない時にも、やがて天に変える日も、イエス様が十字架で祈られたように、私たちに熱心な方に信頼し、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と祈ることが出来るのです。

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