7月31日のメッセージ

2022年7月31日  聖者が嘆きの歌を歌う時③〜たといそうでなくても〜

<ファミリータイム:ダニエル書3章 口語訳>

14 ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。15 あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。16 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。

 

<バビロンで生きる>

 聖者が悲しみの歌を歌う時(When Saints sing the Blues)というシリーズでお話しています。今日はバビロニア帝国によって、南ユダ王国が滅ぼされ、奴隷として引かれていき(捕囚は3回、BC606ダニエル、597エゼキエル、586エルサレム陥落)、その地で暮らすようになったダニエルたちのお話です。

 バビロンとは、ティグリス・ユーフラテス川流域の古代都市であり(現在のイラクあたり)、法律、文学、宗教、芸術、数学、天文学などが発達した古代オリエント文明の中心地、繁栄と権力の代名詞です。文学や音楽の世界では、悪と欲と力に満ちた、国家権力や支配体制、退廃した都市の比喩として用いられ、聖書の中では、神に反抗する地上的な権力を意味します。(ローマ帝国など)

 

 ダニエルたちは、圧倒的な支配力によって、自分たちの慣れ親しんだ状況が否定され、自分たちの常識や価値観が通用せず、違う価値観を押し付けられる状況の中、アイデンティティや信仰の危機に直面しました。

 私達もまた、国や地域、社会や文化の状況の中で、自分の大切にしているものが否定され、好ましくない価値観や歩みを強要され、まるでバビロンで生きているかのように、感じることがあるかも知れません。

 また、コロナ禍のような苦しい状況、生活の中で起きる問題や病、罪なども、圧倒的な力の下で翻弄されるとき、信仰の危機や試練という意味でも、バビロン捕囚に重ねられます。

 そのような状況の中で誠実かつ懸命にバビロンで生き抜いたダニエルたちに、学びたいと思います。

 

<神様の計画を握りしめる>

 私達は、体制や状況に支配され翻弄される時、信仰の危機に直面します。自分の思いや考えで頭と心が一杯になり、嘆き、悲しみ、敵に怯え、神に見捨てられたかのように考え、信仰がゆらぎ、歩みはふらつきます。実際、バビロンに対して、反抗し戦いを挑み滅びた人もいれば、バビロンを嫌いエジプトに逃げた人々もいました。諦めての中でバビロンに妥協し、自分たちのアイデンティティを失ってしまった人もいました。

 

 けれどダニエル達は慰めの言葉を握りしめていました。『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 』(エレミヤ29:11)とあるように、今の困難な状況ですら、無駄な苦しみではなく、神の配慮の中にあるのだ、このことを通して成し遂げてくださるご計画が有るのだ(具体的には、バビロン捕囚を神が与えた悔い改めの機会として、変えられてエルサレムに帰るのだ)、と受け止めたのです。

 

 そして、その安心に支えられ、『あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕

えて生きよ。』(エレミヤ27:14)『わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。』(エレミヤ29:7)という言葉の通り、バビロンの人や王を恨み敵対するのでなく、その地のために祈り誠実を尽くし(ダニエル1:12)、神と人を愛しながら(マルコ12:29〜31)生きたのです。 

 

 私達は厳しい状況や、違う価値観の中に置かれるのを、好みません。けれど、それは神が無力なのでも、神に見捨てられたのでもないのです。神はあなたを愛しておられる、計画を持っておられる、それが自分を見失わず、バビロンを生きる私達への支えです。

 

<神との関係を握りしめる>

 神様を大切にする時、バビロンのような状況では摩擦を生じます。1章の食べ物のに関する問題の際には(ユダヤ人に特定の食物や、宗教祭儀に使われた食物の禁止規定がありました)、神を愛し、人を愛する素晴らしい選択ができ、神の助けを受けて、野菜だけでも健やかに育ち、問題・摩擦は解消しました。

 けれど、ダニエルや3人の友人は、偶像を拝む(3章)、王を拝む(6章)、という問題にぶつかります。本当の神様を拝むべき、けれど偶像や王を拝まなければ、燃える炉やライオンの穴に、放り込まれるというのです。

 

 ダニエル達は、ここでも王を尊重します。『偶像礼拝者め、悪人め、呪われろ!滅びろ!』とは言わないのです。ただ、『それはできません。神さま以外を拝むことはできません。』と、炉へと、ライオンの穴へと向かうのです。もちろん『もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。』(ダニエル3:17)という神様への信頼がありました。

 

 けれど、こう続きます。『 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。』(3:18) 私達はこれから燃え尽きることになるかも知れない。それでも、悪と罪に身を捧げることはできない、と言うのです。

 

 これは、ただの勇気ではありません。偶像を拝み、他国の王に頼り、神を捨て去った結果、国を、神殿を失った。神以外のものを拝む、愚かさとその結果を、この身で痛いほど味わった。だからもう、あの過ちは二度と繰り返さない。すべてを失ったが、神までは、本当のいのちまでは失うことができない、という決心の言葉です。(8月の反戦の近い、3月の反原発の誓いに、似たものがあります。彼らは、私達は過去から学んだのです。)

 

 3人の誠意も通じず、彼らは燃える炉に投げ込まれます。しかし、王は炉を覗き、驚きの声を上げます。『私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。』(ダニエル4:25)

 

 神は彼らを燃える炎から救われた、けれど、もっと大切なのは、燃える火の中でも神は共におられた、ということです。ユダヤ人にとって、最も大切なのは、神が共におられることです。(豊かさや、安全は、その見えない神が共にある外的証拠の一つでした)3人は共にいてくださる神を体験したのです。

 

 神はバビロンでも共におられ、燃える炉にも、ライオンの穴にもおられ、十字架にも共におられる。そして、時には地上の命を、そして必ず永遠の命を、守り救ってくださる方です。

 

 私達は、文字通りの燃える火の炉やライオンの穴のような状況にはないでしょう。けれど、圧力であったり、困難であったり、神を捨て去る、神の子としての歩みを諦めさせる誘惑は、私達の生きるバビロンには有るのです。けれど、『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』(マタイ6:33)神さまとの関係、絆こそが私たちのいのちなのですから。

 

<希望を握りしめる>

 ある日ダニエルは幻を見ます。『私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。』(ダニエル7:13〜14)

 

 この状況が全てではない、本当の王様がいる、その方の国が来る、その希望に生かされたのです。そしてやがて、イエス様はこの箇所を意識して、ご自身を『人の子』と呼び、言われました。『人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』(マルコ10:45)

 

 ダニエル達の時代から600年後、ユダヤの小さな町ベツレヘムの馬小屋に一人の幼子が生まれます。遠い東の国から3人の博士が拝みにやってきて言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:2)この東方の三賢者が出発した国が、バビロンのあたりだと推測されています。神の不思議な働きとも、捕囚の民やダニエルたちの影響があったとも言われます。神はバビロンをも覚えていた。ダニエルの、3人の、人々の表した愛と誠実は無駄ではなかったのです。そして、バビロンを生きる私達の、あなたの、神と人への愛は決して無駄ではないのです。神が無駄になさらないのです。

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