7月24日のメッセージ

2022年7月24日  聖者が嘆きの歌を歌う時②〜悲しみは分岐点〜

 

<ファミリータイム:エレミヤ書29章10〜11節>

まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

 

<悲しみの知らせ>

 私達は生きていると、受け止めるのが難しい言葉や出来事に直面する時があります。

 みなさんは、聞きたくない言葉、認めたくない指摘、はあるでしょうか?その中には、的はずれなものや、相手の弱さや不誠実さから出た言葉も確かにあります。ですが、時に耳が痛い言葉にこそ、心を揺るがす言葉こそ、時に、私達にとって必要な宝が隠されている場合がある、と聞いたことがあります。

 また、問題であったり、病であったり、自分に都合の悪い、好ましくない出来事が起きた時、どうして自分に都合の良いことだけをおこしてくださらないのだ!と神様に不満を持ったことはないでしょうか?けれど、危機(クライシス)という言葉の原語に、分かれるという意味があるように、実は試練の時こそが、私達にとって大切な転換点、分岐点となるのです。

 今日の場面で預言者エレミヤは、悪い知らせを、これから起こる悲しい出来事を伝えることになりました。エレミヤは、南ユダ王国の罪を指摘します。南ユダ王国は神を捨て去り、外国から輸入された偶像の神々を拝み、神様の戒めを忘れ、貧しいを人々を虐げるようになってしまった。だから、国はバビロンによって滅びる。神殿は崩壊する。あなた方はバビロンへ捕囚(奴隷)としてひかれて行く。その地で誠実に生き、そしてその地の祝福を祈れ(エレミヤ27章)。やがて70年したら神があなた方を再びこの土地に連れ戻す、と伝えたのです。

 

 国が滅びる、神殿が崩れる、・・・とんでもない屈辱です。指導者たちは怒り、他の預言者は、大丈夫だ、そんなことは起こらない(エレミヤ28章)、と反論します。使徒パウロが、「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(第2テモテ4:2)と私達に警告したように、人は、都合の良い言葉だけを好み、都合の悪い言葉や出来事は受け止めないのです。

 そして、BC587年頃、南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、神殿は焼かれ、人々は捕囚として、バビロニアに引かれていくのです。

 

<悲しみの意味>

 南ユダの人々は、国を失いました。神殿を失いました。宗教制度を失いました。普通ならば全てが、終わりです。けれども、一部の人達は、エレミヤの言葉をしっかりと受け止めました。彼らは神を失ったわけではないのです。耳の痛いエレミヤの預言があったから、人々はこの出来事を神様の視点で捉え直すことができました。

 思い返していただきたいのですが、神様はただ苦しめようとしたのではない、ただ罰しようとしたのではない、一時的に外国で奴隷となるが、やがてあなたがたは帰ってくるのだと、私が連れ戻すのだ、回復があるのだと言いました。エレミヤは、神様の愛と計画を示すため、わざわざ土地を購入し(32章)希望があるのだと身を持って証ししました。バビロン捕囚自体は、悲しい出来事です。けれど「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」と、神様は善いことのために、用いてくださると約束してくださったのです。

 

 そして、バビロニアでの70年間は、神様の言葉をしっかりと受け止めた人たちにとっては、大きな意味を持ちました。  まず、悔い改め、神様に立ち返る時となりました。神を捨て、偶像礼拝をしたために、

国が失われたのだと、痛いほど知った人々は、それ以降、偶像を捨て去りました。歴史を通して、神や預言者を悩ませていた偶像礼拝が、ほぼイスラエルから消え去ったのです。そして、人々はそれまで蔑ろにしていた神様の言葉を徹底的に守るようになりました。痛みを通してではありますが、徹底的に神に立ち返ったのです。

 また、積極的に神様を愛する時となりました。急に今までとは全く違う文化と状況の中に置かれたのです。神殿もありません。祭司制度も宗教制度も、機能しなくなりました。そこで、人々は家々い集まったり、集会所(シナゴーグ)を設置し、集まって聖書を読み、新しい状況の中で、どのように神の言葉に応答していけるだろうかと考え、主体的に生活の中で、取り組みました。(律法学者が生まれ、活躍したのです。)

 歴史的に観た時、このバビロン捕囚は悲しい、屈辱的な出来事ではありましたが、民族が悔い改め、神を愛するようになる、大きな転換期でもあったのです。

 

 使徒パウロは、南ユダの人々のように堕落していたコリント教会に、厳しく接します。そして、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(第二コリント7:10)と伝えました。南ユダの人たちは、神様の愛と配慮が背後に有ると信じ、厳しい言葉を、悲しみの出来事を転換点としたのです。

<愛の動機を信じる>

 このバビロンは、私達が体験する、人間の罪や、悪や、失望や、悲しみ、やがての滅びを象徴しています。 私達もまた、慣れ親しみ安定をもたらしてくれていた”国”や”神殿”が、自分の蒔いた種であれ、自分にはどうしようもない理由であれ、崩れ落ちるのを体験します。 バビロン捕囚をされたかのように、痛み、悲しみ、失望、混乱や不安の中に、心理的にも環境的にも、引いていかれる時があります。

 だからこそ、危機の時には、余裕や平安を、神様への信頼を、失いやすい時には、どうか今日の言葉を思い出してください。愛の神様は、私達一人ひとりの生涯に素晴らしい計画をもっていることを。人の目には混乱に見える中にも、善い方の配剤があり、わざわいではなく、平安を、破滅や滅びではなく、将来と希望を与えようとしておられることを。

 難しい出来事は、決して神からの呪いや拒絶ではないことを。私は、愚かにも、自分に都合の良いことだけを言い、好ましいことだけを起こしてくれる神を望みます。困難があれば、神を疑い、背を向けたくなります。

 

 けれど、言葉や物事は、表面ではなく、動機が大切です。神様は私達を甘やかい媚びる方ではなく、心から愛し、最善を願う方です。罪をごまかしたりしたりせず、愛するからこそ、厳しく指摘し関わります。時には、その深い愛に根ざしつつ、私達が「どうして?」と思う出来事を許されます。エレミヤは預言と同時に、神様の心を伝えました。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。 」(エレミヤ31:3)困難にあっても神様の深い愛がある。大丈夫だ。信ぜよ。そう励まし続けました。その直後から、回復の約束が語られるように、必ず連れ戻すと約束があったように、神様は必ず良くしてくださるのです。そして、70年後には、人々はエルサレムに戻ることができ、神殿を、再興するのです。

 

 私達は生きている限り悲しみにあいます。受け入れたくない出来事、聞きたくない言葉を、受け止めなくてはいけない時もあります。 そんな時、それにどう向き合うかで、将来が変わってきます。ダビデが、「 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)と言ったように、パウロが「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5:3〜5)と言ったように、困難の時も、私達は神の愛を受けているので、将来と希望を与える、意味を持ちうるのです。

 

<私達への約束> 

 最後にもう一つ、神様は、エルサレムへの帰還や神殿の再建以上に素晴らしい約束を残しています。それは、イエス様がやがてしてくださることが語られています。

 「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──主の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。のようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──主の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」エレミヤ31:33〜34 

 

 バビロンが象徴するのは、罪と死と滅びです。イエス様はそこから私達を連れ出し、本当の平安、将来、希望である、父なる神のもとに連れ帰ってくださるのです。

 

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