6月5日のメッセージ

おざく台教会2022年6月5日「ペンテコステ」

 

<聖書:使徒の働き>

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。 2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 

 

<壁でなく橋を>

 ペンテコステおめでとうございます。(ペンテコステに関する説明は、末尾・別紙にありますので、ご参照ください。)ペンテコステは、教会の誕生日とも言われます。

 ペンテコステに合わせ、教会とは何かを考えながら、いくつかの本を読み、詩人で批評家の若松英輔さんの本<危機の神学〜「無関心というパンデミック」を超えて〜>の内容が心に響いてきました。コロナはとても恐ろしい病ですが、それに伴い広がる無関心や、自己中心という病もまた恐ろしく、私達が、教会がそういった危機にどう向き合うか姿勢が問われている、という内容です。危機(クライシス)はギリシャ語のクリネイン(分離する・分ける)が語源であり、分かれ目、転機、分岐点、という意味もあります。

 教皇フランシスコは「壁を築くのでなくでなく橋をかけるのが信仰者です。」と私達を励ましましたが、危機の時とは、苦しみの中でこそ、壁を作ろうとするか、橋をかけようとするか、私達の分岐点なのです。

 

 本の中では、今日の状況と重ねがながら、善きサマリヤ人の例え話(ルカ10章)に触れられていました。ある宗教家がイエスと議論をしています。「隣人を愛せよ」という戒めについて、宗教家は「わたしの隣人とは誰ですか?」と尋ねるのです。どこからどこまでが私の責任範囲ですか?どこの線から外側の人がわたしの責任外ですか?どこまでの範囲の人を愛すれば神は満足し、私を褒め、永遠のいのちをいただけるでしょうか?

 

 そこで、イエスは(ユダヤ人が敵であるサマリヤ人を助ける話ではなく)、敵であるサマリヤ人が倒れているユダヤ人を助けてくれるという例え話をします。(この話にはユダヤ人の宗教家や宗教学者も出てくるのですが、彼らは倒れた同胞を横目に、自分には関係ないと、自分には都合があると、無関心に通り過ぎたのです、それは線を引き、壁を作る宗教家の姿であり、私達の姿を表現しています。)そして、「誰が私の隣人か?」、という質問には応えず、逆に「誰が苦しむ人の隣人になったのか?」と問います。宗教家がしぶしぶ「その人に憐れみをかけてやった人です。」(サマリヤ人とは言いたくなかったのです!)と答えると。イエスは、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と送り出すのです。

 

 この本を読みながら自分自身は、必要を抱えた人に、痛んでいる人に、神様を知らない人に、関係に難しさを覚える人に、どのような心で、どのような姿勢で向き合っていたか、考えさせられました。

 特に、コロナを始めとした様々な危機の時、余裕を失い、痛み、焦り、恐れ、悔しさ、怒り・・・それらで心がかき乱されます。祈りつつ、周囲の助けを受けなんとか歩み、自分が健全な状態でいることで精一杯でした。そして、時にこの宗教家のように、表面的には宗教的でも、自己中心で無関心な冷たい心になっていました。

 

<壁を築く人間、橋をかける神>

危機の時に自己中心というウイルスに感染したのは弟子たちも同じです。(もともと内側に潜んでいた罪・ウイルスが、危機のときに活発になったと言ったほうが正確かもしれません。

イエス様が復活したあと、弟子たちは言うのです。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(使徒1:6)ローマ帝国をはじめ、私達の国を苦しめていた国々に積年の恨みを晴らし、自分たちを豊かで幸福にしてくれますよね?それはいつでしょうか?

 

私達がそれぞれに痛みを抱えているように、ユダヤの人々には、苦しみや悲しみの歴史がありました。復活のイエスに出会いながらも、自分たちの敵対者への復讐と、自分たちの繁栄を、神に期待するする弟子たちの姿には、私自身の姿を見る気がします。

けれどイエスは応えます。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エ

ルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 

剣を振るい復讐するのでもなく、壁を築き除外するのでもなく、イエスを殺した勢力のいるエルサレム、もとは同胞でありながら敵対関係になったサマリヤ、汚れた異教徒と考えていた地の果てにまで、橋をかけなさいと言うのです。

 

弟子たちのように、私達は線を引きたがります。自分と違いのある人、自分と難しい関係にある人、関わるのに勇気と力を必要とする人・・・無感心でいるほうが安全で安心なのです。傷ついたユダヤ人の横を通り過ぎた宗教家達のように、「するべき自分の仕事がある」、「今は余裕がなく都合が悪い」と理由をつけて身体だけでなく心まで閉ざしてしまうのです。

 

神様は人間の限界をご存知です。この宗教家が、そして、私達がどれだけ働き人助けをしたかを見たいのではない。けれど、線を引き、壁を作る冷たい心でなく、愛と憐れみを忘れない心、小さくとも橋をかけようとするあり方・姿勢を、神の心を持つことを願っているのです。

 

 

<橋をかけるキリスト>

だからこそ、私達にはペンテコステが、聖霊なる神様に関わっていただくことが必要なのです。その方から橋をかける心と力を受けるのです。ラテン語で教皇はPontifexと言います。意味は「橋を作る人」です。その意味で、第一のpontifexはイエス様です。

 

 イエス・キリストは、神でありながら人となって天と地とに橋を架けて下さった。貧しい人、病の人、正しく歩めない人に寄り添い橋を架けて下さった。罪によって断絶された神と人間との間に、十字架によって橋渡しして下さった。全ての人に神への道を開いてくださった。

 

 ペンテコステでは、様々な国の言葉が話されました。それは、どれだけ弟子たちが無関心であっても、神はどんな国籍・民族・文化の人をも愛している証拠です。

 そして、ペテロが説明した神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』(使徒2:17~18)という言葉は、人がどれだけ差別しようが、壁を作ろうが、神がどんな立場や境遇の人にも、壁の外に置かれた人にも、橋を架けて下さる証です。

 

 人々が通り過ぎる中で、倒れた人に寄り添った善きサマリヤ人とは、イエス様の心を表しています。神は私たち一人ひとりに橋を架けて下さった。傷つき倒れ死を待つ旅人を善きサマリヤ人が実を粉にして助けたように、イエスさまは罪と悪の中で死を待ち倒れていた私たちを十字架でかかってまで救ってくださった。

 イエスさまは最後の晩餐の席で言われました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

 

 イエスは宗教家には、「だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」(ルカ10:36)と問いました。「彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。』するとイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい。』」(ルカ10:37)

 

イエスは私達に問います。「だれが、罪に死んだあなたの隣人になったと思いますか。」

私達は応えます。十字架で死なれたイエス様です。そして私に愛と憐れみを示してくれた全ての人です。

イエスは言うのです。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 

<今週の黙想>

ペンテコステは、私達に橋を架けてくださった神を覚える日です。その愛に押し出される日です。

今日一日、私は誰の隣人となりましょうか?誰に対して小さな橋をかけましょうか?

 

 

ペンテコステに関する補足資料

 

〇ペンテコステはクリスマス、イースターと並んで、キリスト教の三大祭の一つです。「教会の誕生日」とも呼ばれます。教会とは建物でなく、宗教法人でもなく、制度でもなく、当然牧師や信仰歴の長い人でもありません。原語のギリシャ語エクレシアは、「呼び出された集団」をさす言葉で、神に召された信仰者の集まりを指して、キリストはエクレシアと呼びました。ペンテコステは、聖霊降誕祭、聖霊授与祭とも呼ばれ、聖霊が神を信じる全ての者に注がれた日、私たちが教会になった日です。

 

〇ペンテコステはもともとは、過ぎ越し祭りから50日後、ユダヤ教の五旬節・「初穂の祭り」であり、収穫の始まりを祝うお祭りであり、シナイ山でモーセが律法を授与されたことを記念する日でもありました。その日に聖霊が注がれたのはとても象徴的です。

 

〇聖霊とは、神様であり、神様の霊です。主の御霊、キリストの御霊とも呼ばれます。聖書の神様は唯一でありながら、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神の三位一体の神様としてあらわされます。

旧約聖書の時代、父なる神が、天から語りかけ、時に火の柱、雲の柱で人々を導いてくれた。

新約聖書の福音書の時代、子なる神キリストが、身体をともなって人に関わってくださった。

そして、その後は、聖霊なる神が、私達の内側に住み、人と関わってくださるようになった。

どんどんと神と人との距離が近づき、ついには内に住んでくださるほどに、神が人を求められたのです。

 

〇聖霊は(聖霊なる神様は)旧約聖書の時代は、ごく限られた一部の人(預言者、王様、祭司など)に、限られた時間だけ注がれ、その人は特別な働きをしました。けれどもヨエル書にはこのような約束があります。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル書2章28〜29節)このその約束はペンテコステで実現しました。ペンテコステ以降、聖霊なる神様は、特別な人ではなくすべての人の内に、一時滞在ではなく永遠に、住んでくださったのです。

 

〇「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、」第一コリント

と、神とパウロに背きに背いたコリント教会にも語られるように、全ての信仰者の内に住んでくださっています。そして、大切なのは、「御霊を悲しませ」る歩みをすることでなく、「御霊に満たされ」(エペソ5:18)「御霊によって歩」むことなのです。

 ヘブライ語では霊とは、息とか風を意味する言葉です(exヨハネ3:8)。わたし達は風を見ることは出来ませんが、揺れる枝葉や音から存在を知ることが出来ます。同じように、聖霊なる神様も、信仰者の言動から感じることが出来るのです。

 

○ペンテコステで起きた様々な国の言葉で話す出来事、これはバベルの塔(創世記11章)の出来事とつながっています。人間が高慢になり天に届く塔を建てようとし、神が様々な言語を与えることで、塔の建設を阻止した出来事です。彼らが塔を立てた理由、それは「散らされるといけないから。」です。神様は「地を満たせ。」(創世記1:28)と願ったのに、人々はそれを拒んで一箇所にとどまろうと塔を、外と自分を隔てる壁を作ったのでした。だから多様な言葉を与えて、人々を地の全面に散らしたのです。壁でなく、橋を作るようにと。

 

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

                                         ヨハネ4:13~14

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14:26~27

 

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」第二コリント3章17~18節

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