3月27日のメッセージ

2022年3月27日 「十字架の上の7つの言葉~ルカの福音書~」

 

23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 

<ために、そして、ともに>

「ためにでなく、ともに!」これは止揚学園(滋賀県の障碍児福祉施設)の創設者福井達雨さんの言葉です。福井さんによれば、「ために」というのは立派に聞こえますが、大人の側に重点を置く上からの働きかけであり、親や教育者・支援者などの期待通りにならなければ、そのこどもは否定されてしまう。けれど「ともに」というのは、こどもの側に重点を置き、隣にいて寄り添う働きかけであり、どんなときも離れず見捨てないという決心です。実際はどちらも大切なのですが、クリスチャンである福井さんは「ともに」こそがキリストの私達への関わり方、十字架の関わりた方だと語りました。

 

<ためにの大切さ、ためにの危うさ>

キリストは2人の強盗と一緒に十字架にかけられました。十字架刑は、数ある死刑法の中でも、最も苦痛と恥辱を与える方法であり、十字架で死刑になることは末代までの恥とされました。加えて、ユダヤ人にとっては、木にかけられた者は呪われ神の国に入れないと考えられていました。この強盗は人生の失敗者。人々から見下され、神にも見捨てられた存在と理解されていました。

一方、十字架刑はローマへの反逆罪に適用されるため、彼らは、ローマに抵抗した解放軍とも考えられています。彼らなりの信念や正義があったのかもしれません。また強盗にも言い分があったでしょう。私だけが悪いわけではない、状況が、他の人が、育ってきた環境が、運が、悪かった。

 

そのもどかしさや悔しさをぶつけるように、2人の強盗は最初イエスをののしりました(マタイ27:44)。人は困難の中で、ストレスの中で、自分の外側こそが問題だと考え、人を、周囲を、神を、責めてしまう。そんな時は、自分の「ために」何が出来るのか?どう役に立つのか?という視点でしか、人や神を見られなくなってしまう。強盗にとって、十字架のキリストは、役に立たない、非難の対象でした。

私達も強盗のように、自分の外側に問題があると考え、状況の改善を求め神に祈ります。そして、状況が改善したかどうかで、神は私達の「ために」なるかどうかで、神の愛を判断します。

 

聖書を読み返すと、確かに神様は人間の「ために」たくさんのことをしてくださった、何度も状況を変えてくださった。しかし、それですべてが解決したでしょうか?人間は一時的には感謝しても、状況が改善するとまた、また、好き勝手な歩みに逆戻りしたのです。この強盗が十字架から降ろしてもらったとしても、彼の内側が変わらない限り、もう一度十字架に戻るのが関の山。本当の意味では彼の「ために」ならないのです。問題は別のところに、私たちの外側ではなく、内側にあるのです。

 

<十字架で「ともに」いてくださったキリスト>

そんな強盗達は十字架の上でキリストの祈りを聞きました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)直接的には十字架につけた宗教家のため、同時に裏切った弟子達のため、ののしった強盗達のため、神に背く私達のための祈りです。

十字架というのは最悪の状況です。しかし、ふと横を見ると、そこにはイエスが隣におられた、その方は神を父と呼べる方だった。神を父と呼べる方が、天の上の安全な場所でなく、十字架にかけられて、自分の赦しを祈ってくれている。

 

「ために」の基準ならば、神に無礼を働く人間たちはみんな見捨てられるべきでしょう。しかし、神は、十字架に「いっしょに」(マタイ27:38)かけられてくださった、苦しみを引き受けてまで強盗と「ともに」(ルカ23:32)いてくださった。だから彼らは出会うことが出来た、祈りを聴くことが出来た。強盗は気づいたのです。神に見捨てられたはずの自分は、実は見捨てられていなかったのです。

 

<本当の救い>

この祈りは、強盗の一人を変えました。強盗は2人とも「救い」を求めます。一人は十字架から、外側の問題から、状況からの救いを求めました。もう一人は、私を思い出してください、と内側の問題からの、神から離れていた自分自身の救いを求めます。

 

私達の神は、共におられる神なのです。「あなたはどこにいるのか?」(創世記3:9)と人を求め続ける神です。たとえ人間がどれだけ背を向け、拒み、離れても、隣へと来られます。イエス様はこの時、自分を救え、十字架から降りてみろと、3度も呼びかけられている(35,37,39節)でも降りませんでした。だって、十字架には強盗がいたから。十字架にかかかってまで、この強盗と「ともに」いたキリストは、この強盗が永遠に神と「ともに」いるために、十字架にとどまり続けたのです。

 

キリストは生まれた時2つの名で呼ばれました。1つ目はイエス(神は救う:マタイ1:21)、2つ目はインマニュエル(神は共にいる:マタイ1:23)。キリストの名が表す通り、神が共にいてくださることこそが救いです。かつてある信仰者は断言しました。「天に神がおられるのではなく、神がおられるところが天である。」

ならば、イエス様が、強盗に、そして私たちに語る今日の言葉「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)これは救いの宣言です。

私たちは文字通りには十字架にはかかりませんが、痛みや恥を受ける時、重荷を負う時、病の時など心にも身体にも苦しみがあり、自分の十字架を背負う時(ルカ9:23)、この言葉は、まさに私たちに向けられています。

キリストとともにあるなら、キリストと結ばれているなら、苦しみはただの苦しみではなく、死はただの死ではなくなるのです。

 

<困難の中で隣を見、言葉を聞く>

イエスの言われた「今日」とは、まさにこの日、今この時、といった意味です。十字架の日以来、私達は神とのつながりを取り戻しました。この世界のどこにも、救い主が来られない場所はありません。どのような最悪な場所や状況にも、主はともにいて、その場を、その状況を、天のようにしてくださる。

難しい状況の時、諦めたり、感情に流される前に、祈りの中で隣を見て、言葉を聞いてみてください。そして、気付くのです。主は「ともに」おられると。それが私たちを支える力、人に愛し仕える力です。

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