2月13日のメッセージ

2022年2月13日「こころの泉を見張る④」Ⅰサムエル記17章

 

<ファミリータイム>

17:37 ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」・・・

17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。・・・

17:47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」

 

<聖書>

10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」

10:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

 

<恐れに導かれたサウル、信頼に導かれたダビデ>

サムエル記を、こころの泉を見張る、というテーマで読んでいます。(箴言4:23 新改訳「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」)

 

弱小チームが、予想を覆し、番狂わせを起こして強豪チームに勝利することをジャイアントキリングというのですが、少年ダビデが巨人ゴリアテを倒した出来事に由来します。スポーツやビジネスの場でも、ゴリアテを、強敵や高い壁として理解し、ダビデの勇敢さを、成功の秘訣として引用します。もちろん、そうも読めるのですが、これは聖書ですから、このゴリアテとの戦いは、成功秘話や勝利の秘訣、以上の意味があるのです。

 

ゴリアテは、ただの強敵ではなく、神に敵対する存在として、信仰者の神への信頼を恐れによってくじく存在として、描かれています。この出来事は、強い敵との戦いを通して、私達の心の中の闘い、恐れに導かれるか、神への信頼に導かれるかという本当の闘いもまた描いています。(エペソ6:12)恐れに導かれた人としてサウルを、信頼に導かれた人としてダビデを記しているのです。

 

ゴリアテは確かに強敵ですが、イスラエルにも強い戦士がいました。闘ってチャンスがないわけではない。何より、今までも神に頼り踏み出した時には、神の奇跡を何度も体験してきたのです。けれど、サウル王様もイスラエルも「意気消沈し、非常に恐れた。」(17:11)、「その前を逃げて、非常に恐れた。17:24)のです。恐れに支配され、神様に導かれるはずが、恐れに導かれ、大切な機会から逃げ出し、戦いを避けたようで、実は本当の闘いに敗れたのです。

恐れは大切な感覚です。ダビデも恐れ、不安を感じたこともありました(21:12)。イエス様も十字架の前のゲッセマネの園で恐れ、悲しみました。生きている限り、死の陰の谷(詩篇23篇)を歩むことはあります。恐れても良いのです。けれど、「恐れ退く」(へブル10:38)くことと、恐れつつも導いてくださる方を「信じて」歩むこととは違うのです。

今日のへブルの箇所は11章の信仰者の記録へとつながる、大切な個所ですが、そこでは、恐れることでなく、「恐れ退く」こと、つまり、恐れに支配され導かれることと信仰(信頼)が対比されています。信仰とは、全く恐れないことでなく、恐れを感じつつも、神様に、神様への信頼に導かれることであり、そのどちらを選ぶかが、それが信仰者の、私達の本当の闘いなのです。

私達は何に対して、誰に対して「非常に恐れ」て、神様へ信頼するという闘いに敗れているでしょうか?

何か難しい状況でしょうか?自分に任せられた役割でしょうか?誰かとの関係でしょうか?自分の救いでしょうか?人の救いでしょうか?罪や誘惑との闘いでしょうか?やがて来る死に対してでしょうか?

 

<信頼に導かれるために>

ダビデは生涯において、私たち以上にたくさんの困難や恐れがありつつも、恐れではなく、神への信頼に導かれました。ただ、自信過剰で、無鉄砲なのではありません。ただ立ち向かうことではなく(民数記12:42)、神への信頼によって立ち向かうことが大切なのです。その、ダビデは3つの呼び方で神様を読んでいます。

 

1)「生ける神」(17:26,36)

ダビデにとって、神様は、まさに生きている存在でした。私などは、問題や困難の時に、強い武具がなくてはと、必死によろいかぶとを用意したサウルのように(17:38)自分が何とかしなくては奮闘します。周囲がダビデはまだ若いといったように、自分はまだ力がない、足りないものが多すぎるという声が心を満たします(17:33)。頭と心から神様を締め出し、神様がいないかのように、神が死んだかのように、振舞ってしまうのです。恐れを感じた時は、まず第一に、頭と心に、神様をお迎えする、死の陰の谷をも導いてくださる羊飼いである神様を見るのです。

 

2)「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主」(17:37)

ダビデは、今まで神様が良くしてくださったことを覚えていました。ダビデが拾った「五つのなめらかな石」(17:40)、とは、今までも神の助けを受けつつ、獣と闘ってきた道具です。ダビデは、石を一つ一つ拾いながら、過去を思い返し、その生涯で必要な助けを与えてくれた方が、必ず良くしてくださるという、信頼の表れでした。あなたが恐れを感じた時、いえ、普段から、神が今までどうよくしてくださったか思い返してください

 

3)「イスラエルの戦陣の神、万軍の主」(17:45)

イスラエル民族のイスラエルという言葉は、神は闘う、という意味です。ダビデは自分が一人ではない、一人で戦うのではない、と知っていました。神が共にある、神が戦われるからです。

私達は、文字通りのゴリアテとは、闘いませんが、自分の罪や人の罪と、日々闘わなくてはいけません。やがてはゴリアテよりはるかに恐るべき、死とも向き合います。けれど、すでに、罪と死に対して、十字架の上で戦い打ち勝ってくださったイエス様が共にいるのです。

羊が羊飼いを導き守るのでなく、羊飼いが羊を導き守るのです。

 

<今週の黙想>

あなたを、恐れさせ、神様への信頼を損なうゴリアテとは、何でしょうか?神様への信頼と共に立ち向かえるように、なめらかな石(今までの神様のめぐみと助け)を5つ拾い(思い返し丁寧に感謝の祈りをし)、恐れではなく、信頼で心を満たす時をもってください。

 

<補足>

また、サウル王様はダビデを恐れました。彼の活躍に、自分の地位を奪われると勝手に思い込み、疑い、おびえ、敵とみなしたのです。「サウルはダビデを恐れた。」(18:12)、「ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。」(18:15)、「サウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。」(18:29) モーセが次のリーダーヨシュアを育てることに全精力を傾けたように、次の王として、ダビデの成長を支えていくことが出来たら、どれだけ素晴らしかったでしょう・・・

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