毎日の聖書2月7~13日

おざく台教会毎日の聖書 2月7日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

2月7日(月)第一サムエル記11章

13節「しかしサウルは言った。『きょうは人を殺してはならない。きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。』」

政治的判断や感情的判断をすれば、反抗した者を処罰するのが当然です。しかしサウル神へ向き、その救いを喜び、復讐にはあまり関心がないようです。救われた者は、救われたことを喜んでいる者は、その喜びが人への恨みをどこかへ追いやってしまうのです。救いを喜べば喜ぶほど、私たちは恨み呪う者から、憐れむ者へと変えられてゆくのです。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」第一テサロニケ5章16~18節

 

2月8日(火)第一サムエル記12章

22節「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。」

神を忘れ、背き、高ぶる民の姿が語られます。それでも、あえて、神は民を手離さないのです。神の愛は『それでもの愛』や『あえての愛』、『にもかかわらずの愛』と呼ばれます。あなたは神の一方的憐れみにより、神の民、神の子とされました。数々の反抗にも関わらず、神はあなたを見捨てず見放さないのです。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」Ⅰヨハネ4章10節

 

2月9日(水)第一サムエル記13章

8~9節「民は彼から離れて散って行こうとした。そこでサウルは、『全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい』と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた。」

人々の反応を恐れ、自分の恐れの声に動かされ、サウルは神の定めた境界線を踏み越えます。そこには自己保身と神への信頼の欠如がありました。状況が悪くなると、私たちの内側のサウルが囁き始めます。

自分の心の声も他人の言葉ももちろん大切です。しかし、それが私たちを誤らせることもまたあるのです。どうかいつも、一呼吸おいて、神様の声に耳を傾けてください。それはかすかな細い声(第一列王記19:12)とも言われます。しかし、確かな声なのです。

 

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」Ⅰサムエル15章22節

 

2月10日(木)第一サムエル記14章

24節 「その日、イスラエル人はひどく苦しんだ。サウルが民に誓わせて、『夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる』と言い、民はだれも食物を味見もしなかったからである。」

サウルの弱さや罪は本人の心や頭だけでなく、周囲の人々にも悪影響を与え続けました。恐ろしいのは、罪を犯すことではなく、罪を神に悔い改めず、放置しておくことです。それは次第に、私たち自身も、周囲の人も損なっていくのです。神の前に悔い改めていない罪や、神とともに取り扱っていない弱さはありませんか?

神様はサウルを待っていたように(残念ながらそれは実現しませんでしたが・・・)、あなたがご自身のもとに来るのを待っているのです。

 

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」ヤコブ4章8節

 

2月11日(金)Ⅰサムエル記15章

1節「サムエルはサウルに言った。『主は私を遣わして、あなたに油をそそぎ、その民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。』」

自己中心になり、神の期待を裏切ったサウル。それでも、神はサウルに語り掛け、役割を与えます。いえ、ただ命令するだけではありません。まず先に、サウル自身が決めたのではなく、他人から選ばれたのでもなく、神様が愛と信頼をもって王としてくれた、その事実を思い起こさせます。

サウルの王としての歩みも、私たちの神の子としての歩みも、神の一方的な選びから始まったのです。自分で自分が信じられなくても、他の人があなたをどう言っても、あなたを選んだのは神なのです。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、」ヨハネ15章16節

 

2月12日(土)Ⅰサムエル記16章

1節「主はサムエルに仰せられた。『いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。』」

国のためでなく、民のためでなく、神のための王です。キリスト教が言う、世界の中心はあなたではなく、神なのです。王も、国も、あなたも、神のために存在するのです。自己中心から神中心へ、自己愛から神への愛へ、この大転換が信仰なのです。ちょっと独裁主義的に聞こえるかもしれませんね。けれど忘れないでください、この神は、あなたに心を注ぎ、あなたのために、命まで捨てる神なのです。

 

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」Ⅰヨハネ3章16節

 

2月13日(日)Ⅰサムエル記17章

40節「自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。」

サウル用意した鎧と剣は、ダビデには不必要でした。使い慣れ、自分に合った道具と石、何より神の力で、ゴリヤテに勝利したのです。私たちはどうしても背伸びをして鎧と剣を求めます。しかし、神の戦いは神にあたえられたものと、そこに働いてくださる神様の力で戦うのです。

使徒パウロは信仰の戦い、という表現を用いました。私たちは、試練や誘惑など、ゴリアテ以上に強大な敵と戦わなくてはいけません。あなたが立ち向かうゴリアテは何ですか?あなたが手にすべき『なめらかな石』とは何しょうか?

 

「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」第一テモテ6章12節

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