2月6日のメッセージ

2022年2月6日「こころの 泉を見張る③~傷のついた道、とこしえの道~」Ⅰサムエル記

 

<ファミリータイム>

8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。 8:7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。

12:22 まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。 12:23 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。

 

<聖書>

139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。  詩編

 

<サムエルの落胆>

サムエル記を、こころの泉を見張る、というテーマで読んでいます。(箴言4:23 新改訳「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」)

 

預言者サムエルは人との関わりの中で落胆や失望を数多く経験した人であり、それでも折れずに、誠実に歩み続けた人でした。(最後まで走り抜け」という本では、しなやかさに満ちた人、と紹介されていました。)

イスラエルの指導者となるはずだった二人の息子達は期待通りには育ちませんでした(8章1~3節)。民は、指導者であったサムエルとその努力を拒否するかのように王政を求めます(8章)自分が見出し、励まし続けたサウルは、王様として失敗しました。(15章)。

努力は報われず、苦労や誠意は理解されず、期待は失望に終わり、感謝の代わりに拒絶や批判、攻撃を受ける・・・もしかしたら、私たちにもサムエルのような体験があるかもしれません。

<「傷のついた道」にとどまらない>

サムエルは、民が王を求めた時、指導者としての自分の存在や、今までの努力や献身が、否定されたようで大きなショックを受けました。サムエルも私たちと同じ人間です。私たちが落胆した時のように、自分を責める思い、民を責める思い、(神を責める思いも?)が心を満たし、役割を放り出したい気持ちもあったでしょう。

 

私の限られた経験の中でも、人との関わりの中で落胆し、相手を責める思いが長い間、頭と心を満たしていたことが何度もあります。相手の悪い面に(そして自分の正しさに!)思いを巡らし悶々としていて、その苦々しい思いは、ぐつぐつと煮詰まり、心の底に凝り固まるのです。そして、以前と似たような体験を経験したときには、過去に受けた傷が疼き、苦々しい思いが沸き上がり、過剰な反応をもって誰かを攻撃する(別の誰か、過去の誰かへの怒りをぶつける)のです。まさに「傷のついた道」(別の訳し方では痛んだ道)でした。

もちろん、社会や職場においては、責任を明確にする必要はあり、冷静に対処するべきです。けれど、大切なのは私達の心が「傷のついた道」にとどまらないことです。恨みや、怒りや、呪いの心とこそ、闘うのです。そのような心で、神様の子どもらしく歩むのは難しいからです。

 

サムエルにも同じような危険がありました。しかし、サムエルは「傷ついた道」にとどまるのではなく、「祈った」(8:6)のです。祈るとは、神との会話ですので、祈って神に不平を言っても良いのです。相手や状況が変わるように、願っても大丈夫です。けれど最近「祈ることと、願うことは違う。願うとは、自らが欲することを何者かに訴えることだが、祈るとは、むしろ、その何者かの声を聞くことのように思われる。」(若松英輔『悲しみの秘儀』)という言葉に出会いました。

 

サムエルは、自分に傷をもたらした出来事について、神はどう考えておられるか、自分はどうすればいいか、祈り聞いたのです。どちらが悪いのか、誰が罰せられるべきか、が私達の限界かもしれません。しかし、神様に聞くときに、自分や人を拒むのではない、別の選択肢へ、私たちが思いもしないような、「とこしえの道」へと導かれるのです。

 

神様はサムエルに応えます。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」

民が拒んだのは、サムエルではなく、神自身であるので、サムエルは自分を否定する必要はないというのです。そして、それでも、神は「あえて」彼らを「自分の民」と呼び、彼らを「捨て去らない」ので、あなたも彼らを否定する必要がない、と続けます(12章)。

本来なら神に見捨てられるか、天罰を受けても仕方がないような民の態度にもかかわらず、神は「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」(8:22)とサムエルに命じ、民の欲望や罪深さゆえの王という選択を用いてでも、サウルという王を起こし、民を祝福しようとするのです。サムエルは、しぶしぶだったか、神の意図が分からないままだったかもしれませんが、神の示した道に従い(9章)、サウルを王としました。

 

サムエルはやがて民に言うのです。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。」(12:23)サムエルは神様に祈ることで、つまりは神様に聞き、その心と視点に触れながら、「傷ついた道」から「とこしえの道」に導かれました。

 

先ほどの本の中で、サムエルには戦いどころをわきまえるしなやかさがあった、と記されていました。

人との関わりの中で、落胆することは避けられません。その人のもたらした影響に対して、適切な対処をする必要もあります。けれど、私達の戦いは、利益や損得とか、自分の名誉とか、自分の考えや主張を通すこととか、周囲からの賛同や評価を得る、そんな戦いではありません。(キリストも、サムエルも、そのような戦いをしていません。)そうでなく、自分の中に閉じこもり「傷のついた道」にとどまるか、神の声に耳を傾け「とこしえの道」に導かれるか、それが私達の集中すべき戦いなのです。

 

<とこしえの道・キリスト>

人が欲望から神を退ける。それでも神は人を見捨てない。人の愚かな選択を通しても、神は人を祝福しようとする。このやり取りを読むと、キリストの十字架を思い出されます。キリストは、拒絶の象徴である、十字架に、人の罪と悪意によってかけられました。けれど、それすらも神はしなやかに用いたのです。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」 第一ペテロ2:24

 

詩篇の詩人が導かれるようにと願った「とこしえの道」とは、「わたしが道であり」(ヨハネ14:6)と言われた、キリストのことのように思えます。そして、そのとこしえの道をたどるようにと私達を招くのです。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」第一ペテロ2:21 その道には、人間的な損得を超えた、誰にも奪い去れない喜びと平安があるのです。

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