5月19日のメッセージ

おざく台教会2024年5月19日「たましいの糧③」

IMG_20240519_073217

<聖書:ローマ人への手紙8章>

28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。

 

<ファミリータイム:ペンテコステ>

今日は教会の三大節の一つ、ペンテコステの日です。(他は、クリスマスとイースター)使徒の働きの2章に記された出来事で、キリストの十字架と復活の後、弟子たちに聖霊なる神様が下り、臆病なはずの弟子たちは力を得て、人々に神の愛を表し、良い知らせを伝え始めました。このペンテコステこそが、教会の誕生日とも言われます。

旧約聖書の時代は、王様など、預言者など、限られた人に限られた期間だけ、聖霊が与えられました(それは神の臨在、加護、恩寵などを約束します。)けれど、旧約聖書ヨエル書でこう預言されたように、「28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りや夢を見、若い男は幻を見る。29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル書2章)ペンテコステ以降は、特別な誰か、選ばれた誰か、ではなく、すべての人に、あなたに、神の力は、愛は、恩寵は、表されるのです。

神はあなたと共にいる(マタイ28:20)、あなたを離れず、あなたを見捨てず(ヘブル13:5)、その歩みをいつまでも守り支えてくれる、これがペンテコステのメッセージです。

<愛するために、愛する前に、欠かせないこと>

たましいの糧、というシリーズで、聖書の手紙の中から、私達の深いところを養ってくれるような聖書の言葉を紹介しています。

今日は、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」という言葉です。大正時代の翻訳では「凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。」とあります。

私達の目の前には、大変なこと、思い通りに行かないこと、避けたいこと、たくさんあります。こんなはずじゃなかった、時間が巻き戻せたら、別の道を歩めたら、そう思うことがあるでしょう。

 

少しだけ自分の話をさせてください。私は、10年前に羽村に来ました。この10年は、自分の計画や、希望とは、全く違う歩みでした。牧師として働こうと、一大決心をし、前の仕事もやめて神学校に通ったのですが、幼稚園の園長や、現在のように中学・高校の教師としても働くことは、想像だにしませんでした。その間には、喜びや充実感もありつつ、あまりの苦労や、ストレス、難しい状況に、「どうして自分がこんな目に」と思い、腐っていたこともありました。

思い出しても(思い出したくないこともたくさんあり)大変な毎日でしたし、「万事が益となる!」と100%の自信を持っては言えませんが、熱さが喉元を過ぎて、多少落ち着いてきた今なら、少しだけ「万事が益となる」と思えるようになってきました。

保育経験、ご家庭との関わり、宣伝や経営、行政との関わりなどは、教師としての仕事にも生かされていますし、このような私でも人から信頼をされる助けともなります(学校では今だに「園長先生」と呼ばれています。)何より、こども、ご家庭、出会ってきた様々な人を通して、人として大切なことを学ばさせていただきました。(また、皆さんに祈られ、励まされ、慰められ、教会の、信仰のありがたさを実感しました。)

私は本来、視野や考えが狭く、打算的で、プライドが高く、自己中心な人間です。きっとそのまま牧師をしていたら、(今以上に)みなさんに迷惑をかけ、嫌な思いをさせていた。そんな私でも、その10年を通して、視野が広げられ、考えや価値観が少しずつ新たにされてきました。
もし皆さんがこのおざく台に少しでも好感をもってくださっているとしたら、それは、ひとえにみなさんがたの素晴らしさですが、ほんの少しだけ、この10年の苦労も、今につながっているのだと思います。

 

実際キリストの十字架も、当時の弟子たちから見れば悲劇でした。使徒パウロの逮捕も、初代の教会から見れば損失でした。けれど、人の目には悲劇や損失と見える出来事も、私たちを始め多くの人に救いの道を開くことに繋がりました。

私たちが体験する出来事も、私達の目には利益どころか大損失だとしても、都合よくないことばかりだとしても、神の目に、そして、やがて私達の目に、良いこと(「益」というギリシャ語アガソスの原意)に、人の救いや本当の幸いにつながることもまた、あるのかと思います。

 

<万事を益とするのは誰?>

万事が益となる、と聞くと、「全てうまくいく」ような、楽観主義度やポジティブ思考と言いますか、かつて流行った「引き寄せの法則」のようにも聞こえませんか?古い訳では、

●また凡の事は神の旨に依て召れたる神を愛する者の爲に悉く動きて益をなすを我儕は知り(明治訳)

●神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。(大正改訳)

とあるように、原語では「神」ではなく、「全てのこと」が主語なのです。新しい新改訳2017版では「すべてのことがともに働いて益となる」と、より原語に近く訳されています。

 

では、なぜ、以前の訳で神が主語になっていたのか、それは、背後に神様があるからです。この箇所は、その前後の文脈を見れば分かる通り、神様が背後で一生懸命働いている、という箇所です。偶然うまくいくとか、運命が味方する、とかそういう文脈ではなく、ローマ書で描かれているように私達のために奮闘する神様を念頭に翻訳しているのです

 

26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。27 ・・・御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

31 神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。

 

聖霊なる神が、父なる神が、子なる神キリストが私達のために、一生懸命なのです。私達のために夢中になり、奮闘しているのです。私達は、自分で自分の毎日を懸命に生きています。同時に、神が私達の毎日に懸命に関わっているのです。

私は、夢中で、一生懸命に、(時に神や祈りさえ忘れて??)、歩んできました。けれど、神は私達のために祈りとりなし、味方として、私達の守りのため、支えのため、救いのため、奮闘していたことを、そのおかげで今があるのだということを、この箇所から教えられました。私たちが神を忘れても、神は私たちを決して忘れないのです。神こそが、「全てのことを働かせて益としてくださる」のです。

 

宗教とは私たちが神に何をするかに注目します、しかし聖書が示す福音(良い知らせ)とは、神が私たちに何をしてくださるか、なのです。 思い返してください。教会の三大節、救い主が生まれたクリスマス、キリストの十字架の犠牲と復活のイースター、神が聖霊として私たちと共にいてくださるペンテコステ、全て私たちは何もしていないのです。神が一方的に私たちに関わってくださったのです。

 

キリストの救いと平和を予告して、預言者イザヤは言いました。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」イザヤ9章7節

私達の救いは、私達にではなく、神にかかっているのです。パウロは8章をこうまとめます。
35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。

 

神の愛は永遠に私たちを離れないからです。今日も明日も、神はあなたのために、熱心に、奮闘しているのです。その安心と喜びに支えられて、大変な毎日でも勇気を持って歩んでください。あなたは一人ではないのです。

 

Top