12月12日のメッセージ

12月12日メッセージ 信徒説教者:小田切武

私の賜物は       第一コリント12章4節~7節

読売新聞に寄せられた人生相談に精神科医である野村総一郎さんと言う方が答えられたものを紹介します。

「19歳の無職女性。だめ人間の自分が嫌で、どうすれば良いのかわかりません。高校2年の時に授業に出られなくなりました。カウンセリングや治療も受けましたが、単位が足りずに退学しました。留年する自信も有りませんでした。高校認定試験には合格し、短期のアルバイトの経験はあります。でも、短期でない仕事はすぐ辞めてしまいます。人付き合いが苦手で 、かっての友達とは、自分が嫌われていると思って、自らつながりを切ってしまいました。今、何をしているのかと聞かれると困ります。長女なのに親や家族に迷惑をかけて申し訳ないです。私は心が弱いのです。ちょっとしたことに傷つき、人が怖いのです。誰でも一つは良いところが有ると言いますが、私には何もありません。今の嫌いな状況を変えたい。でも動けない。焦っているのに、今更遅いとも思ってしまいます。アドバイスをお願いします。」

 

「内気すぎて世の中に適応できない」という悩みを持つ人はとても多いのです。これもそんな相談ですが、あなたは性格を変える必要はありません。性格は個性であって、良いも悪いもないですから。むしろ、目標を「適応する」から「人に役立つことをする」に変えることを勧めます。別に大それたことでなくて良いのです。部屋の片付けとか、玄関の靴をそろえるとか・・。その気で見ると、世の中には必要とされているのにやる人が少ないことがたくさんあります。施設のお年寄りの話し相手をする。体の不自由な人を少し手伝う。いくらでも広がります。「そんなことをしても仕事にはつながらない」と思う必要はありません。目標は適用ではないのだから。ただ自分を呪い、運命を呪う人生を変え、「人に役立つ」ことだけを考える事から再出発する。そうすることで、自分自身をいくばくか好きになってほしい。この回答はなんだか説教くさいですけれど、私の知っているお年寄で、「街に落ちているごみを一つでも拾って、それから死ねたら十分幸せ」と言っている人がいます。この感覚さえあれば、他の多くはいらないと思うのです。

 

この内容を、「私はイエス様に出会い、イエス様を信じてはいますが、教会に来て礼拝を保つだけで交わりも苦手で、神様の証は何もできてはいないのです、やろうと思っても臆病で気後れして何もできない、実行力もないダメな人間なのです。仕事も日常生活も似たようなものです。自分には賜物なんてあるのでしょうか。」と置き換えることが出来ないでしょか。このように考え、悩んでおられる方は案外多いのではないでしょうか。回答は「人はそれぞれ違う賜物を神様から与えられているのです。人の先頭に立つ働をする人もいるでしょう、目立った働きをする方もいるでしょう。しかし誰もが、それをすることを神様は望んでおられるのでしょうか。人は神様から与えられた、自分の賜物を活かせばよいのでなないでしょうか。自分が今立たされている場所、環境で自分が出来る事をやる。それは決して大それたことである必要はないと思います。イエス様を信じ、救われた私たちに必要なことは救われた者としての喜びに満たされて生きることだと思います。気負うことなく自分が出来る事からやりましょう。神様の証となること、人の役に立つ事ならどんな小さなことでも良いのはないでしょうか。それを進んで、自信と喜びを持ってやる事、それが大切なのではないでしょうか。

 

この事を聖書から確認していきましょう、今日の聖書個所第一コリント1章4節~7節を読んで見ると、ここには、神を信じた人たちに与えられている賜物は多種多様であると言われています。それを与えてくださっているのは神で、人にはいろいろな働きが必要であり、神は必要な賜物を一人一人に与えてくださっているという事が書かれています。私たち一人一人に与えられている賜物は神様からの頂き物なのです。賜物の違いは劣等感や優越感を生むべきものではありません。人と比較するようなものではありません。またそれらは,皆の益のために与えられたものあって,自らのためだけのものではないのです。何か一つの働きへの偏りは好ましいことではないと教えておられます。これからはっきり言えることは、福音で救われた者としての喜びに生き、自分に与えられた賜物を活かした生き方をすることを神は望んでおられるという事ではないでしょうか。

 

長くなるので、今日お開きはしていませんが12章の続く個所を読んでみると、これらの賜物はキリストという一つの体の様々な器官に例えられています。後で是非読んで頂きたいと思います。そこでは、その器官の特徴を3つあげています。1つ目はその多様性です。体には足や手、耳や目などたくさんの器官がありますが、それぞれ違った働きをしています。でもどんな器官でも別の器官に、「私はあなたを必要としない」などとは決して言えません。2つ目はその統一性です。たくさんの器官があっても、ばらばらではありません、足に痛みが有れば全身が苦しみますし、目がよく見えれば全身の動きがスムースになります。キリストの体には、すべてが必要なのです。3っ目はその神性、すなわち神が中心であるという性質です。教会の働きであっても使徒、預言者、教師などの御言葉の指導者だけでなく、教会員を様々な面で支える援助者たちも皆、神から任命された人々であり、すべての中心は神であるあることを忘れてはいけないという事を教えて下さっています。私たちは自分の賜物を活かすことで大切な働きをしているのです。そして神様はそれを喜んでくださいます。皆さんはそれぞれが立たされている場所で必要とされている事を充分していると思います。大切なことはその事を喜びを持って行うことではないかと思います。喜びを持つということは、楽しいかどうかではありません、それを行うことが大変であっても、心に喜びを感じる事が出来るかどうかです。心に喜びが感じられることでないと長く続けることは出来ません。苦しくても喜びが感じられる事、これが自分に与えられている賜物を活かしているかどうかの判断になるのではないでかと私は思っています。

 

そして、神が求めておられるのは神を助ける者ではありません、自分の無力さに気づいて神に憐れみを求め、神の助けを求める者です、神に助けを乞いながら自分の賜物を活かして行く事が大切です。私たちキリストを信じる者は皆、御霊によって導かれ、全員に御霊の賜物が与えられていることに感謝いたしましょう。しかし、それは、それぞれ違った賜物です。違っているからこそ、誰もが必要とされるのです。私たちは、互いの違いを認めたうえで、皆が同じキリストの体であるという信仰を共有して行きましょう。そして一人が苦しめばみんなで祈り、一人が尊ばれればみんなで喜ぶ「愛の共同体を」作り上げて行きたいと願います。私たち一人一人が、今立たされている場所で、自分に与えられている賜物を大切にして神の導きと助けの中で確かな実を結んできましょう。今週も私たち一人一人が与えてくださった賜物を活かして、福音の証人として用いてくださる主を見上げ、しっかりと繋がり、感謝を持って歩む1週間でありたいと願います。

今週の黙想:「主が自分に与えてくださっている御霊の賜物は何かを知り、それを全体の益のために、

福音の証のために用いる事が出来ますように」と祈っていきましょう。

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