毎日の聖書12月6日~13日

おざく台教会毎日の聖書 12月6日~

アドベント(待降節)に入りました。クリスマスの箇所をゆっくりと読み黙想してみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

12月6日(月)マタイ2章16~23節

20節「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」

ヘロデ王は自分の地位を守るために、自分の妻や息子たちを殺し、部下たちを殺し、何の落ち度のないベツレヘムのこども達をも手にかけました。そのヘロデと同じ罪の性質が、わたし達すべての人間の内側にも宿り巣食っているのです。

誰かから攻撃されるとき、(自分にも足りないところがないかと省みつつも)、ただその人を恨むのでなく、その人の内側にある罪がそうさせているのだと、自分にも同じ罪の性質があるのだと考えてみてください。

そして、ヨセフたちを神様が守ってくださったように、あなたのことも共にあって守ってくださるように、祈り求めてください。

 

12月7日(火)ルカ1章5~25節

17節「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

ゼカリヤの子はやがて成長し、洗礼者ヨハネとなります。ヨハネは忖度なく、人々の痛いところをしっかりと指摘しました。当時の人々は、表面的には宗教的な人々でしたが、神に対して意固地になり、背を向けている領域が誰の心や生活の中にでもあったからです。そして、そこを神に向けて方向転換し、神に取り扱ってもらうところから、わたし達の本当の変化が始まるのです。

聖書の言葉の中には、喜ばしく耳に響くものもあれば、痛いところを突かれ耳が痛くなるものもあるでしょう。けれど、聞きたくない言葉ほど、実はあなたにとって大切なのかもしれません。神に背を向けていたその領域を、神に向き直り、神に取り扱ってもらいませんか?

 

12月8日(水)ルカ1章26~38節

38節「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」

「最も悲惨なことは、神から『あなたの心の通りになりますように。』と言われることであり、最も幸いなことは、神に『あなたの心の通りになりますように。』と言うことです。」と教えられたことがあります。

わたし達の心や願いも確かに大切です。けれど、神の思い、神の計画こそが、最善であることをどうか忘れないでください。私達も今日のマリアの言葉を、神様に対して言うことができますように。

 

12月9日(木)ルカ1章39~45節

45節「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

私達はもちろん神様を信頼しています。けれど心のどこかで、神様の言葉通りにならないのではないかと不安に感じたり、十分に信頼しきれず別の何かに頼ったり、といった経験はないでしょうか?

ユダヤ人たちは、神様が遣わしてくださる救い主を待ち続けましたが、次第に待ちきれなくなり、信仰が形骸化したり、他国や武力に頼るようになっていきました。

信仰には、疑いや恐れがつきものです。マリアですら、戸惑ったり、時には疑ったりもしました(ガリラヤで宣教を開始したイエス様を、連れ戻そうとしたのです。)。けれど、神様に語られた言葉を覚えていて、また信頼へと立ち返ったのです。

たとえ「からし種」(マタイ17:20)ほどの小さなささやかな信仰でも保ち続け、その信仰に立ち返り続けてください。イエス様はそれがやがて大きく実を結ぶと言ってくださったのですから。

 

12月10日(金)ルカ1章46~56節

54節「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。」

旧約聖書と新約聖書の間の数百年間、預言者の沈黙と呼ばれる時代があり、神様の言葉は新たには語られず、神様がユダヤ人と関わってくださらないかとも思われる長い時代がありました。

しかし「時が満ち」(マルコ1:15)、なんと神ご自身がこの世界に、貧しく寂しい馬小屋に来られたのです。神様は決して私たち人間への憐れみを忘れていなかったのです。
あなたは、神が沈黙している、と感じますか?その沈黙があまりにも長く耐えがたいでしょうか?けれど神が人間への憐れみを忘れなかったように、あなたへの憐れみも決して忘れることはないのです。あなたの今日一日が、神様によって守り支えられますように。

 

 

12月11日(土)ルカ1章57~80節

78~79節「これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

もともと、クリスマスの12月25日はローマの太陽信仰のお祭りの日でした。(ローマにとっての冬至であり、太陽が生まれる日と考えられたのです。)けれど、その太陽もまた、神様の被造物であり、太陽の暖かさ、明るさは、神様からの恩寵です。

そして、太陽が出ていても、わたし達の心は、魂は、暗黒と死の陰に座り込んでいるかのような時もあります。私たちのすべてを照らし、平和の道に導くことができるのは、本当の光であるイエス様だけなのですから。

ローマの人々はやがてキリストを信じるようになり、神に造られた太陽でなく、本当の光の誕生を祝おう!と考え、12月25日にイエス様の誕生を記念するようになりました。

あなたは何によって自分の心を照らし、温めようとしていますか?ゆっくり時間を取って、本当の光であるイエス様に、心を照らされてみませんか?

 

12月12日(日)ルカ2章1~7章

7節「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

「宿屋」と訳されている言葉は、他の箇所では全て「客間」と訳される言葉です。当時は、人を家にもてなすのが一般的であり、大切な宗教行為でした。それなのに自分達にゆかりのある町に帰った、出産直前の妊婦に、だれも場所を用意しなかった・・・宿屋が満員で泊まれないのではなく、ヨセフは、マリアは、キリストは、人々に拒まれたのです(マリアの不思議な妊娠の話を聞き、理解されなかったのでしょう)。

ベツレヘムの人々の判断は、社会的には、また宗教的には、「正しかった」のかもしれませんが、それゆえに、キリストの居場所を用意できなかったのです。せっかく目の前に救い主がおられたのに・・・

ある修道院の玄関には、こんな言葉が記されています。「お客さんが来た、キリストが来た。」また、マザー・テレサは、重い病気の人にも、道に倒れ異臭を放つ人にも、違う信仰の人にも、その内側にキリストを見るようにと教えたそうです。

私達はどのような理由で、人を拒み、また神を拒むでしょうか?もちろんそこには道理や正しさもあるかもしれません。その判断を尊重いたします。けれど、今日の箇所も頭の片隅で覚えておきたい、そう願います。

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