10月5日のメッセージ
2025年10月5日「キリストと出会う①」マルコの福音書1章1〜9節
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。・・・1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
<宗教ではなく福音を>
キリストと出会う、というテーマで、マルコの福音書を読んで行きたいと思います。福音書は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」(マルコ1:1)と始まります。
福音とは、ギリシャ語でユーアンゲリオン、英語で、グッドニュースやゴスペル、です。良い知らせ、嬉しい出来事、受け止めた人に幸をもたらすものです。
ではどうでしょう。教会は、キリスト教は、幸いをもたらしているでしょうか?いえ、歴史を通し、教会は、信仰者は、神の名を掲げ、戦争や、侵略や、差別や、排斥を繰り返してきました。そして、神の名や聖書を利用して、自らを正当化するのです。(これが十戒で禁じられている「主の名をみだりに唱えてはならない」ということです。)
教会に所属する、洗礼を受ける、聖書の言葉を大切にする、それらは良いことです。けれど、キリストが抜け落ちてはなりません。
ヘブル人への手紙はこう始まります。『1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり』
キリストこそが、神の心の完全な表れです。聖書は素晴らしいが、聖書からカルトも作れてしまう、キリスト教国が、侵略や虐殺、差別も正当化できてしまう。ですから、キリストの言動に照らし合わせて聖書を読み、説教を聞き、教会を見張るのです。
銀行員や、宝石の鑑定士は、偽物を見分けるために、徹底的に本物に触れるそうです。そうすると、偽物に触れたときに、違和感を感じることができるのです。
ですから、キリストの生涯であるマルコの福音書を通し、キリストを、福音を知りたいと思います。マルコが描くキリストの福音の始まりは、バプテスマ、洗礼の場面でした。
<洗礼の列に並ぶキリスト>
宗教の中心エルサレムではなく、そこから30キロ以上離れたヨルダン川とその周辺の荒野、普段は人の少ないその場所に、大勢の人が集まっています。人々の視線の先には、「らくだの毛で織ったものを着て、腰に皮の帯を締め」(6節)た男性、洗礼者ヨハネがいます。人々は列をなし、「自分の罪を告白して」(5節)水に身体を沈める、「罪がゆるされるための悔い改めのバプテスマ」(4節)を受けていました。
なぜ田舎の、人の少ない荒野に、「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民」(5節)とも言われるほど大勢が集まったのか?旧約聖書が全て記されてから約400年間、人々に神様の言葉は語られませんでした。ユダヤの国はペルシャ、ギリシャ、様々な国に支配され、多くの血が流れ、多くの屈辱を受け、今はローマ帝国に支配されている・・・・
人々は、聖書に約束されている救い主・キリストがやってくるのを待ち望みました。そして、400年の沈黙の時を経て、ついにヨハネが現れ、救い主の到来を予告し、その準備として、人々に悔い改めを説き、バプテスマ・洗礼を受けさせます。洗礼とは、清めの儀式です。心も生活も、清められる必要がある、と自覚する人が、自分は罪人です(罪人とは犯罪者ではなく、聖なる神の前に正しくない人、という意味です。)、神様の介入が必要です、という表明として、神に出会う備えとして、洗礼を受けたのです。
自分から列に並び受ける人、受けようか迷う人、なんとなくで受ける人、それを遠巻きに見る人、あざ笑う人、嫉妬しヨハネを睨む指導者、色々な人がいたでしょう。あなたはどこにいますか?並ぶ人?迷う人?あさける人?
そこへ救い主・キリスト・イエスが、やってきます。けれど、大勢の群衆に教えるのでもなく、ヨハネへの陰口を言う指導者を諭すためでもない、イエスは洗礼を受ける罪人の列に並ばれました。ヨハネから「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ」(4節)を受けるためです。
これは、神の子イエスには全く必要ありません。救い主・キリストである人物が、罪人と一緒に洗礼を受けることは、つまずきでしかない。ヨハネのほうが優れている、イエスは罪がある、そんな意見もついて回りました。なぜ、救い主イエスの公生涯は、このような情けない、恥ずかしい、誤解を生むような、罪人の列に並ぶ体験から始まるのでしょうか?それのどこが福音なのでしょうか?
しかし、この誤解を与える行為にこそ、福音の本質が現れているように思います。罪人の列に並ばれ、罪人と同じバプテスマを受けられた、いつも罪人に寄り添われた、そして罪人の受ける十字架へつかれた神の子。それはまさに、神が私たちと同じになられた、私達のところへ来てくださった、私達とともにある、という証拠なのです。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」 ピリピ人への手紙2:6~8
ある有名な神学者 妻が女性特有の病気 妻のため古い友人の名医に会いに行く 病院は歌舞伎町のような場所 水商売の女性たちや性病に悩む男性たち ガラス張りで外から見える待合室 通りからのじろじろとした視線に耐えられない 順番を先にしてくれと交渉するも断られる 顔を隠し、私はこんな場所にいる人間じゃない、私と彼らは何の関係もない、人に見られたらどうしよう、と嘆く その時、イエスの洗礼の箇所が、罪人の列に並ぶイエスの姿が浮かんだそうです。
キリストは、洗礼を受ける人々を遠巻きに見て、あざける人、見下す人とは一緒にいなかった。キリストは、収税人、売春婦、の列に並ばれた。彼らと私は関係ないとは言わなかった。イエスは、私はあなたとは関係がない、とは決して言いません。
イエスの洗礼は、ひっそりとは行われなかった。大勢の罪人と一緒に行われました。私は彼らと共にいる、私はあなたと共にいる、そう言ってくださる神なのです。これこそが、キリストの福音です。キリストは「わたしはあなたとともにある」、と言い続け、貧しい人、見下された人、正しくない人、「イエスなど知らない」と裏切る弟子たち、と共にあり続けました。イエスの公生涯が洗礼ではじまるのは、神は罪人とともにある、という宣言なのです。
そして、イエスが受けた洗礼が、神は私達と共にある、という意味なら、私達が受ける洗礼はその応答です。わたしたちも、神と共にいたい、という応答なのです。
教会とは、正しくないもの、力のないもの、愚かなもの、見下されたもの、が受け入れられ、尊ばれるところ、神が彼らと、私達とともにいてくださる場、キリストの心と福音が満ちる場所です。(それがないなら、そこはユダヤの会堂か、ただの宗教施設です。)
私たちが、自分の罪や情けなさに失望するとき、私達の後ろに並んでくださるイエス様の顔を見たいのです。
私たちが誰かを見下しそうになるとき、その人の後ろに並ばれるイエス様の姿を思いたいのです。
今週一週間、私達の後ろに並んでくださる救い主に心を向けて歩みたいと思います。
有名な讃美歌「ここに私はいます」(讃美歌21 563番)があります。
ここに私はいます ホームレスの眠る街 ここに私はいます 凍える子の涙にも あなたは?
ここに私はいます 仕事さがす列の中 共に私はいます 変革よぶ人々と あなたは?
共に食卓かこみ パンを分かつ群れの中 共に私はいます みことばに生きる人と あなたは?

