9月28日のメッセージ
2025年9月28日「あなたは祝福となりなさい」創世記12章2節&22章1–19節 井本香織神学生
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。」 旧約:創世記22章1ー3節
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N H Kラジオ 宗教の時間で、4月から9月に放送された番組はおすすめです。
【傷ついた 癒し人となる】ヘンリ・ナウエンの歩みと言葉 酒井陽介「弱虫神父」の物語を受け継ぐー
宗教の時間、はマニアックな番組だと思いますが、教会の近くの本屋さん「ブックス多摩」に、N H Kテキストが5冊ほど並んでいるのには驚きました。
ナウエンの歩みをとても簡単に紹介しますと、オランダ出身のカトリックの司祭です。彼は、神学と共に心理学も学び、深い人間理解に基づいた本をたくさん書きました。ナウエンは、ハーバード大学で学生たちを教えていましたが、そこを辞めて、障がい者の方達が共同生活をするのチャプレンになった人です。
1、情けなくても、傷ついていても、失敗しても、それでも神様は一緒にいてくれた
ナウエンの本は、私が20才ごろの時に当時通っていた牧師先生が紹介してくれました。その時はわからないことが多かったのですが、ある時から、読むたびに引き込まれています。
ナウエンの自分の傷つきやすさ、寂しさ、愛されたい、自分の居場所が欲しい、という葛藤、自分の気持ちを正直に分かち合う姿に心惹かれるようになりました。彼は葛藤の中で揺らぐのです。しかしそれを隠そうとはしません。「ただ、神様にただ愛されている」というけっして揺らがない土台を確認しながら、周囲に分かち合い続ける人でした。
今日の聖書箇所で登場するアブラハムも、自分の葛藤を神様に打ち明けることができた人でした。妻サラの間には、長い間、後継となる子供が与えられませんでした。当時は、現代とは違って、家父長制のとても強い社会です。周囲から、「惨めなもの」、「欠損のあるもの」、と見られること、そして自分自身も、自分のやってきたことが無駄だったのではないかという虚しさの中で、彼は、苦しんでいました。
しかし、ある夜、彼はその気持ちを隠さず正直に神様に向かって打ち明けました。(旧約:創世記15章)
神様は、アブラハムの願いにしっかり返事をくださいました。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」「あなたの子孫は、数えることが出来ないくらいたくさんの星の数ほどになる。」「アブラハムは、主を信じた。」アブラハムは、自分の悩みの殻から出て、揺らがない神様を見上げ続けることを選んだのです。
私たちも時にはアブラハムのように、正直に神様に「思い通りにいっていない」「つらい」「悲しい」「怒っている」と言っても良いですし、「あなたは、そのような方ではないですよね!」と親しくやり取りをし、懸命にもがいて、いいのです。神様はその祈りを受け止めてくださいます。むしろ、難しい状況や、情けなさを通して、神様と親しくなっていくのです。
また、アブラハムは、決して完璧な人ではありませんでした。エジプトへ一時的に移住した時は、恐くなって、自分の妻サラを、妹だと嘘をつきました。神様は、神様を信頼できずに恐れから嘘をつくという失敗をしたアブラハムのことも、「あなたは失敗したから、もうダメ!」とは言わず、変わらずによくしてくださり、イサクが与えられました。
個人的な話ですが私たちが、おざくに来てから12年が経とうとしています。こちらに来た頃、(もちろん神様は、おざくの教会の皆さんをはじめ、とてもとても良くしてくださいましたが)周辺の動揺する話を聞いた時は、それを家で思い出すと、イライラして庭にものを投げたこともありました。あるとき、人から1つの文句を言われたら、50倍にして言い返したこともありました。怒ることは、けっして悪いことではありませんが、怒りの表し方が問題だったのです。こういう、失敗もするし、情けない、難しい状況でもがく者を、神様は見捨てないでくださいました。逆に、神様は、共にいて良くし続けてくださいました。
アブラハムの人生のクライマックスでイサクを捧げるために山に向かった時も、もしかしたらこれまでの歩みを振り返りながら、神様を信頼していたゆえに黙って行動してのではないかと思うのです。(もちろん、信仰の父アブラハムと自分を重ねるなんて、ちょっと背伸びをしすぎかもしれませんが)イサクを捧げるようにと言われた時は、アブラハムは黙って翌朝、イサクと共にモリヤの山へ出発しました。
きっとアブラハムは、神様と長いこと親しく過ごすうちに「神様は、あの時も、あんな失敗もしたし、こんな情けないところもあった私に良くしてくれた。納得できない時には、私はしっかり嘆いた。神様はその嘆きにも応えてくださった。神様は見放さず、良くし続けてくださった。今回もきっと神様の備えがあるのだろう。」という信頼の表れの沈黙を持って、神様に従ったのではないでしょうか。後の時代の人は、アブラハムについてこう語っています。
信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。(新約:ヘブル書11章17〜19節)
信仰 は、信頼、真実、とも訳される幅広い意味を持つ言葉です。真実な神様は、イサクを通して全ての国民を祝福すると約束してくださった。(創世記17章)アブラハムは、揺らがない真実な神様に信頼しながらイサクと共に山へ向かったのです。
2、もう、イエス様が与えられているから
聖書全体を読むと、アブラハムとイサクの物語は「天の父なる神が、ひとり子イエス・キリストを私たちに与える」ことの深い予表(予告)でもあります。
イサクの命は助かり、神様は身代わりの羊を準備してくださいました。
私たちに対しても、イエス様が、十字架の上で身代わりの羊のようになってくださり、私たちには神様と共に生きる永遠の命が与えられています。
新約聖書のローマ8章32節にはこうあります。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(新約:ローマ8章32節)
神様は、愛するご自身の御子を十字架に渡されました。自分の愛する息子を犠牲にする——これは人間の感覚からすれば「狂っている」としか思えないことです。けれども神様は、それほどまでに私たちを愛してくださったのです。そして、私たちは、この愛の中、揺らがない約束の中に日々生かされています。
3、「祝福」となるようにと
神様が、イエス様を与えるほどに自分を愛し、受け入れれてくださっている。私たちが、動揺するとき、いつでもこの「安心、安全基地」に逃げ込むことが出来ます。時には、正直に神様に嘆く時もある、また時には、これまで神様が良くしてくださったことを思い出し、イサクを連れてすぐに山に旅立ったアブラハムのように沈黙のうちに、神様への信頼を表すこともあるでしょう。
いずれにしても、神様との深い交わりと信頼が、もたらすものは何だろうか?
神様との深い信頼関係がその人の人生に表されていく時、自分と周囲への「祝福」が現わされる、祝福がにじみ出てくることをアブラハムの生涯が語っています。
「あなたは祝福となりなさい」
神様は、深い人間理解を持って、アブラハムに、そして私たちに命じておられます。「あなたの安心基地は、ここだよ。いつも私があなたを受け入れる。あなたの魂は私が守る。私は、愛するひとり子さえも、あなたに与えた。」冒頭に紹介した、ナウエンが生涯を通して分かち合ってくれたように、私たちは、情けないところもあり、時には傷を受けた者として神様の前に自分を差し出し続ければ良いのです。差し出せば差し出すほどに、受け止めてくださる神様への信頼が、毎日増し加わります。私たちは、この安心と信頼の中に生きながら、周囲の人を愛する人、祝福となっていくのです。
「祝福となる」とは、牧師や教職者だけがすることではけっしてありません。ナウエンは、障がいを持つ人たちと共に暮らす中で、自分の終のを見出します。彼らと共に各地を講演し、祝福を分かち合い、自分自身も慰めと癒しを得ていました。神様は、私たちのどんな小さな振る舞いや、思い、祈りにおいても、その人が神様に造られたその人らしく「祝福」としてくださいます。

