10月12日のメッセージ

2025年10月12日「キリストと出会う②」マルコの福音書1章9〜11節

 

9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。 11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」    

 

<良い知らせである福音>

聖書の福音書から、良い知らせ、福音、(ギリシャ語でエヴァンゲリオン、英語でゴスペル・グッドニュース)について学んでいます。

幼児園では、いつもこの聖書の言葉を保育者や保護者と共有していました。子どもを愛し、成長を支える時に、この福音の言葉は欠かすことができません。

私達もまた神さまの子どもです。私達が、隣の人が、神さまの子どもとして生き、成長するためにもどうかこの箇所をしっかりと理解してほしいのです。最初に記された福音書で、最初に響く神の言葉が、今日の言葉だからです。

 

マルコ1: 11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」これはもちろん、キリストに向けられた言葉です。けれど、洗礼を受ける必要のないはずのキリストが、わざわざ洗礼を受けられた。そして水から上がったタイミングで、わざわざ周囲の人々にも聞こえる形で語られました。

キリストの洗礼の1つの目的に、私達への見本という意味合いがあります。

私達が、神を信じるとき。洗礼を受けるとき。別の福音書では、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書1:12)とあるように、私達に向けても、この言葉が響くのです。

 

私達は、子どもたちは、神さまの子であり、神様はひとりひとりを愛している、喜んでいる。喜ぶは、原語のギリシャ語では、尊く見ている、という言葉です。イザヤ書43章4節「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」という言葉を思い起こさせます。

神に尊ばれ、喜ばれ、愛されている、存在が肯定されている、それは私達を深いところで支えてくれます。福音書は、キリストの公生涯は、この言葉から始まったのです。わたしたちもこの言葉から始まるのです。

 

<キリストの公生涯の、最初に語られた福音>

この言葉は、いつどんなときに語られたかが重要です。

5千人の給食の奇跡のあと、ではありません。

山の上の説教のあと、でもありません

十字架と復活のあと、でもないのです。

 

福音書の最初、洗礼(1章)のあとです。この時イエスはただ、洗礼を受けただけです。

一つの奇跡も起こしていないのです。一つの説教もしていないのです。一人の弟子も、一人の改心者も生み出していないのです。

言い方は悪いですが、このときイエスはまだ何者でもないのです。(神ですが。)

何もしていない。何も成し遂げていない。何も得ていないのです。それなのに、この言葉が語られている、それが重要なのです。

保育では、何かができるようになること(Doing)、や、何かを得ていくこと(Having)は、とても喜ばしいことですが、だからといって、よりできる子やより持っている子を、大切にすることはありません。子どもが子どもであるから、尊びます。子どもの存在そのもの(Being)、ただ生き存在していることが、大切にされる理由なのです。

キリストはまだ何もしていないとき、洗礼を受け、この言葉を聞いた。わたしたちもまた、何もせず、何も持たず、何も差し出さず、ただ洗礼を受け(受動態です)、この言葉を聞く。存在しているだけで愛され尊ばれる、これこそが福音です。

 

宗教とカルトの違いをご存知でしょうか?NHK番組「こころの時代」のカルト宗教特集では、カトリックの批評家若松英輔さんが、その定義を、恐怖、束縛、搾取、の3つとしていました。カルトは、・・・

こうでないと罰せられる、これをしないと救われない、と恐怖で信者を動かします
こうせねばならない、これをしてはならない、と信者の生活を束縛・支配します

そして、財産、時間、力を、信者たちから搾取するのです。(穏健な日本基督教団の牧師が、番組内で、「その定義ならば私達もカルトではないか」、と心配していました。)

 

信者を、恐怖、束縛、搾取で操つれてしまう理由は何でしょうか?それは、その教えが福音ではないからです。意図的にか、誤解からか、順番を入れ替えるのです。

今日の言葉が語られたのは、何もせず、何も得ていないときです。それでもわたしたちは、ただ受け、愛され、赦され、尊ばれ、救われるのです。そして、愛されたものとして、人を愛し、人に仕え、分け与え、変えられていこうとするのです。私達が信仰者として行う行為はすべて、恵みに対する応答です。これが福音です。
けれど、内容はそのままに、その順序を入れ替えるならば、これをしたから、これが得たから、愛される、赦される、救われるとなるのです。逆にこれをしなければ、こうでないならば、愛されない、赦されない、救われない、となってしまいます。

その順序を入れ替えたとき、私達は、こうでなければ、これをしてしまったなら、と、神に裁かれ捨てられる恐怖で動かされ、教会の言いつけに束縛され、もっとなにかしなくてはと時間やお金や力を搾取されるのです。私達は順序を間違えてはいけないのです。

神の愛(アガペー)に、十字架に、何かを付け加えないでください。どんな善行も、どんな立派な祈りも、どんな後悔の涙も、十字架には必要ありません。愛は、勝ち取るものでも、引き換えるものでもなく、ただで受け取るものです。

 

あなたの功績や(Doing)、あなたの持つ宝や(Having)は、神のあなたへの思いを増し加えない。逆に、あなたの過ちや失敗(Doing)、あなたの傷や醜さを持っていても(Having)、神のあなたへの思いを減らすことはできない。神はあなたの存在そのもの(Being)を喜ばれるからです。

 

イザヤ43章4節はこう続きます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、」イザヤ書43:4

これほど良いキリストと私たちを比べて、私達を選び、私達を生かすため、キリストを十字架へ差し出してくださった。神はあなたを選ばれた。と言われ、私の前に出て罪人としてヨルダン川に入っていく。神はあなたを選ばれた。と言われ、私を押しのけ、十字架へと進み出ました。

 

私達は、この方に愛され、この方についてくのです。

 

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