9月21日のメッセージ

2025年9月21日「信仰の再確認、めぐみの再発見①」第二列王記5章

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1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」

 

9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で、洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりにヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

 

15 そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにおいても神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」16 神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。」それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断った。

 

17 そこでナアマンは言った。「だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。18 主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。」19 エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」

 

<それしかないわけないでしょう>

ヨシタケシンスケさんの絵本『それしかないわけないでしょう』を紹介します。未来には嫌なことばかり起こると脅されたり、2つのうちどちらかしかないと迫られた女の子、「それしかないわけないでしょう」と、大人との示す2択とは別の選択をしたり、想像力を用いて、いろいろな選択肢を生み出していきます。私達の心を広げてくれる、素敵なお話です。

 

<信仰は分断や息苦しさを生む?>

ニュースでは、宗教や信仰の名のもとに、侵略や虐殺、排斥や差別が行われているのを毎日のように聞きます。痛み悲しむ人と結びつくはずの信仰が、政治や権力、陰謀論と結びついています。人を自由に、謙遜に、幸いにするはずの信仰が、人を高慢にし、盲目にし、束縛し傷つける様子を見て、人々はつまづき、神からいよいよ離れていきます。

信仰とはなんでしょう?思想信条に同意すること?教えに沿って生活様式を変えること?大きな犠牲を払うこと?難しいことにチャレンジすること?

確かに、そのような側面もあります。しかし、全てではないのです。神の心を、安易に単純化したり、狭い範囲に限定してしまうと、本質から離れたり、地に足のついていない、キリストのそれとは似ても似つかない歩みになってしまいます。教会も「こうでなければならない」「それをしてはならない」と、束縛や禁止ばかりの息苦しく、近づきがたい場所になってします。だからこそ、神の、大きさ、深さ、広さ、豊かさを表す、今日の箇所を読みたいのです。

<すべての人、民族、国に働く神>

今日の箇所は、ユダヤ民族・古代イスラエル国家に属さない人と神との話です。主人公は、アラム(現在のシリアあたり)という、古代イスラエルと戦い、殺害し、捕虜を取る、(これに関しては古代の文脈なので、今日の善悪の物差しでは測れません)、そんな敵国の将軍です。その人に神が関わるのです。

 

注:ここで出てくる『イスラエル』は、旧約聖書の時代に神の使命を担ったイスラエル国家であり、今日ガザを中心に侵略を虐殺をするイスラエルとは、名前は同じでも別物です。古代イスラエルへの役割は、教会に引き継がれたというのが伝統的神学です。

 

私達は、自分の国と他の国、自分の民族と他の民族、自分の宗教と他宗教、信仰者とクリスチャンでない方(『ノンクリ』という失礼な言い方はおざく台では禁止です)、のような線を引き、自分たちを中心に考え、線の内側を、自分たちだけを神が祝福すると思い込みます。◯◯ファースト、というのが良い(悪い)例です。

 

しかし・・・「アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。」(5章1節)

驚くべきことに、主が、イスラエルの神が、敵国の将軍ナアマンに働き、アラムに勝利を得させた、というのです。ナアマンの妻に、イスラエルの捕虜女性が仕えていたことからも、イスラエルに対する勝利だと思われます。ナアマンは神を知らない、敵国の人物なのにです。
神の祝福は、働きは、愛は、私達の考えよりも、はるかに広いのです。あらゆる国に、すべての民族に、あらゆる宗教の人に、神の心は向いていて、働いているのです。

私達は今、神を信じています。しかし、信じる前から、いえ生まれたときから、私達が気づいていてもいなくても、神は私達を生かし、守り、時に特別に関わっていくれていたのです。そして、それは私達が日々出会う、まだ神を知らない人たちも同じです。神の祝福は、大きく広く、私達の想像を超えているのです。

 

<動機は様々でいい>

 「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」(3節)

そんなナアマン将軍は、皮膚病を治したくて、イスラエルを訪ねます。真理を求めてでも、自身の罪に直面してでも、ない。半信半疑で、最後の手段のようにやってきました。必要に迫られて、探る中で、試す中で、ふとしたきっかけで、その過程で、神様に向いた・・・それは私達も同じでしょう。でも、それでもよいのです。「信仰は大小でなく、対象」とも言われます。そんなナアマンを、そんな私達を、受け入れる神なのですから。

 

<予想外の救い>

ところがわざわざ会いに来た預言者エリシャは、金銀財宝の豪華な贈り物には目もくれず、使いを通じて、ヨルダン川で7回水浴しなさいと言うのです。ナアマンは、期待していたような特別な儀式がない!、水浴という簡単な方法なんて!、川が貧相じゃないか!、とがっかりし、怒り帰ろうとします。

しかし家来達が、『わが父よ。難しいことを、あの預言者はあなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。』となだめたことで、ナアマンはしぶしぶヨルダン川の水で洗い、皮膚病が幼子の肌のようにきれいに治ります。

 

財宝が受け取られない、仰々しい儀式がない、貧相なヨルダン川、水浴という難しくない応答、ナアマンの予想をことごとく裏切るような一つ一つにも意味があります。これは、やがてのキリストによる洗い清めを暗示しています。

なんの犠牲も要求されない(キリストが犠牲になる)、壮大な神殿でなく貧相な十字架、7回の水浴どころかただ信じるだけ、それがキリストによる洗い清めです。

信仰とは、長い巡礼の旅をしたり、高価な物品を買ったり、毎日休まずお参りをしたり、苦行の果てに悟ったりとは違うのです。努力や犠牲で手にする祝福や救いではないのです。

「8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ人への手紙2章8節)

 私達が神に何かを差し出すのではない、神がしてくださったことを信頼して受け取る、それが信仰なのです。誰でも受け取ることができる。誰も高慢にならず、誰も見下されない。本当の信仰は、天国のような場を地上にもたらすのです。

 

<自分の国に帰り生きる>

ナアマンはこの後、アラムに帰ります。同じ仕事につき、王が別の神に祈るときには介助のため付き添い、アラムの神の神殿で王と一緒に膝をかがめなくてはなりません。。

ナアマンが恐る恐るその許可を尋ねると、預言者エリシャは、「安心して行きなさい。」と、アラムの国で、アラムの習慣の中で、神の愛を表していきなさい、と送り出すのです。

 

信仰には、生活や行動がガラッと変わる、出家のようなイメージが伴うのかもしれません。

ある時代の教会は、あらゆる物事を脇へ置き日曜は必ず教会へ、伝統文化は神道や仏教と結びついているから禁止、禁酒禁煙、娯楽もだめ、教会の物事が一番優れていて大切、そう教えました。キリスト教幼稚園でも、日本の伝統文化を避け、聖書関連の絵本だけを読ませ、歌うのは子供讃美歌だけ、職員はキリスト者だけ。教会以外の文化と、対決的な姿勢を取るように教えたのです。

何かを禁じたり、何かを離れたりすることが、神の素晴らしさを表現する(証になる)ことも、場合によってはあるかもしれません。けれど、世界は神により創造され、神の素晴らしさを反映しています。神はナアマンに働かれ、この世界にも働いています。(一般恩寵)

 

このナアマンの箇所から、信仰を持つとは必ずしも、世捨て人になる、生活様式を全くの別物にする、という訳ではないと分かります。今までと同じ生活様式でありながら、本当の神様を信じ、誠実に歩むことも、立派な信仰なのです。

アラムの神の神殿で、それを拝む王を介助し、一緒に膝をかがめることで、王をいたわる、それでも自分が心から信じるのは、本当の神様であり、イスラエルの土地の土で祭壇を作り、礼拝をする、このナアマンの姿は、私達に大切なことを教えてくれます。
「あれをしなければならない」「これをしてはならない」「他の人よりできているか」そうやって失敗や批判を恐れながら、不安でいる必要はないのです。
エリシャは『安心していきなさい』とナアマンを送り出しました。私達が信じるのは、広く、深く、大きく、豊かな神です。この方に信頼し、それぞれの場で神を信じ、神の恵みを表すのはどういうことか、それを問いながら歩むのです。

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