毎日の聖書9月15日〜

おざく台教会毎日の聖書 9月15日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

9月15日(月)第2列王記19章

14節「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。」

ヒゼキヤは直面する問題のすべてを、神の前に広げました。問題や弱さがあることは恥ではないのです。神はそんなことで、あなたを見捨てたり見限ったりはせず、むしろあなたを慰め、解決を与えてくださいます。神の目の前にはもともと、全てが明らかなのです。大切なのは、私達の態度であり、姿勢です。あなたの問題を、弱さを、神の前にさらけ出し祈ってください。

 

「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」へブル4章13節

9月16日(火):第2列王記20章

19節「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか、と思ったからである。」

ヒゼキヤは15年の余命をもらいますが、その15年が、バビロン捕囚の原因ともなる過ちを犯し、最悪の王マナセを生む期間となりました。生涯の長さや、平穏な日々は、素晴らしいことですが、それ以上に大切なのは、短い日々でも、嵐のような毎日でも、神と人を愛し、誠実に歩むことです。

エノクと言う人物は(当時としては)他の人の半分にも満たない生涯でした。けれど、神と共に歩んだ人として証されています。私達はヒゼキヤに倣いましょうか?エノクに倣いましょうか?

 

「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」創世記5章24節

9月17日(水)第2列王記21章

2節「彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行った。」

他国の神や価値観を取り入れる、偶像礼拝は、他国との友好関係を円滑にし、自国を経済的に繁栄させます。儀式に伴う快楽は、愉しく、魅力的で、人間的観点から見れば良いことばかりです。

しかし、それは神との関係を損ない、あなたの歩みをゆがませ、「主の目の前」には悪なのです。あなたの生活、周囲とのかかわりは、主の目にどう映っていますか?

 

「ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。」ヨシュア記22章5節

9月18日(木)第2列王記22章

11節「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。」

衣を裂くとは、痛恨の感情の表現です。ヨシヤは、律法を読み、神の言葉を聞き、いかに自分達の生活が神の言葉から遠いかに気づき、激しく悔いました。私達も、神の言葉を聞き、自分の衣を裂けますように。

 

「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」黙示録2章5節

9月19日(金)第2列王記23章

26節「それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行いのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。」

ヨシヤ王の宗教改革の成果は素晴らしいものでした。しかし、それをもってしも、マナセ王の悪影響は残り、神は怒らずにはおられません。このことは、人の応答が無意味と言うのではなく、人の悪がいかに深刻かを、人間自身の正しさでは神の前に立ちえないことを、表しています。だからこそ、キリストの十字架のみが私たちの救いなのです。

 

「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」コロサイ1章20節

9月20日(土)第2列王記24章

2節「そこで主は、カルデヤ人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて、これを滅ぼすために彼らを遣わされた。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。」

神に不従順だった南ユダ王国についに終わりがやってきます。神は愛の方であり、正義である方なので、悪に対処せずには、罪に報いずにはおられないのです。同じくユダの民と同じく不従順な私たちに滅びが来ないのは、ただただ神の愛のゆえ、キリストの十字架のゆえなのです。

 

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」第一ペテロ2章24節

9月21日(日)第2列王記25章

24節「カルデヤ人の家来たちを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる。」

バビロン捕囚は、民には悲劇であり屈辱でしたが、人の思いを超えた天の配剤、神の御心でした。ネガティブな出来事でさえも、神の御心ならば、従順の先には幸せの約束があるのです。私達が体験する出来事も、私達の目には良く見えたり、悪く見えたり、様々でしょう。そこに秘められた、神の御心を、主のご計画を、ゆっくりと祈り聞いてみてください。

 

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29章11節

 

Top