3月8日のメッセージ

2026年3月8日「キリストの福音⑩」 マルコ3章20~35節

 

3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。 3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。・・・・

3:31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。 3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。 3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」 3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 3:35 神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 

<私達が聞く4つの声>

 人は4つの声、1.自分の声、2.人の声、3.悪魔の声、4.神の声 を聞くと言われます。

1.自分の声は大切です。自分が何を望んでいるかは、丁寧に耳を傾ける必要がある。一方で、私たちの内側は罪の影響を受けている。自分の不安や、自己保身、欲望の声が大きくなることもある

2.私達は人の声を気にします。また人の声に導かれる場合もあります。

3.悪魔の声は人を誘惑したり、高慢にさせ、恐れや不安で、信仰を揺さぶります。

4.そして、神の声こそが人を生かすのです。(牧師の声でも、教会の声でもありません)

 

20節:イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。

 イエスが家に来ると、人々が大勢集まってきました。病気を治してくれ、という人もいましたが、大部分は、イエスの言葉、イエスの声、を聞きに集いました。

しかし21節では、違う声に動かされた人たちが出てきます。イエスへの妬みや悪意から、誹謗中傷をしたり、悪い噂を流す人達がいました。21節:気が狂った、22節:悪魔に取りつかれている、などなど。その非難や噂は、イエスの母マリアや兄弟ヤコブやユダ達にも届き、心配になってやってきました。また、宗教指導者も、妬みや焦りからイエスを批判します。

 

21節:イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。

 「気が狂う」(エクステイミ―)はエク「外に」、ヒステイミ「立つ」、「立っている場所から外に出る。」エクスタシーの語源。頭も、生活も、イエスはあるべき場所から出たと考えた。そこで、「連れ戻し」(クラテオー)に来た。これは、逮捕の時にも使われたことば。相手を自分の手の支配下に置く。無理やりにでも連れていく。(英語だとseize)

31節:さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。

 呼ぶ(カレオ―):エジプトから呼びだすとか、罪人を招くために、といっしょ。イエスを呼ぶ。イエスが間違っているのだ。こっちに戻れという!自分たちのところに呼び出す。

 

 家族も、宗教学者も、自分の声や人の声に動かされ、イエスを自分の都合よく動かそうとしたのです。イエスの声は、どこにも出てきません。一方で、対象的な姿があります。イエスの周りに集まり、イエスの声に耳を傾けていた人たちです。彼らの声は聞こえません。ひたすら耳を傾けていたからです。

 

 私達は、イエスを自分の側に引き寄せる、イエスの言葉に耳を閉ざし、自分の都合に合させようとする、自分の声だけを大きく響かせる、そういう信仰を歩んでいないでしょうか?イエスの遠くに、イエスより高いところに立っていないでしょうか?彼らは、自分こそ正しい、神が自分の側にいると考えていました。(個人でも、国家戦争でも、陥りがちな過ちです)しかし、神が私の側(がわ)にいるか、相手の側にいるかでなく、私が神の側にいるかが大切なのです。

 

<キリストの声>

 3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 

 イエスを呼びに来た家族を受けて、語りかけたこの言葉。この箇所は、教会>家族、信仰生活>日常生活、という主張に用いられてきました。しかし、信仰は、家族や生活を疎かにする「印籠」や「免罪符」にはなりえないのです。(マルコ7:9~13)

 

 補足ですが、前ローマ法王フランシスコ1世は、幸いのための十戒という内容で、第五戒を、「日曜日は家族のために」としました。週に1日は心の求めに応じ、瞑想、礼拝、家族との生活のために充てる。家族と一緒に、神の恵みに感謝する日として勧めたのです。

 ある牧師は、教会と家族は、信仰と日常は、順序付けできない。分けられない、つながっていと教えました。重心のかかったほうに身を寄せる、と教えました。神と人を愛するのが、キリスト教の信仰です。

 

 この文脈は、神の国の話。神の国をもたらす方、神の国の王であるイエスに、私達が向き合うかという話です。

 神の国の文脈の中で、イエスが、「わたしの母、わたしの兄弟たち」(つまり、神の家族、神に受け入れられたもの)と呼んだのは、肉親でも、立派な宗教家でもありません。イエスの周りに座っていた、名もなき人たちです。彼らを指し示して、「神のみこころを行う人」と言ったのです。

 彼らは何を成し遂げたのでしょう。何もしていません。彼らは何を持っていたのでしょう。何も持っていません。ただやってきて、イエスの周りで、イエスの話に耳を傾けていただけです。

 

 みなさんは、礼拝に来ておられる。なんとかく、習慣で、と思っているかもしれません。もっとこうしなきゃ、より貢献しなきゃ、と思っているかもしれない。けれど、この箇所を見てください。イエスは、集った人を指し、「わたしの」家族だと喜んだのです。みなさんは神にとっての喜びなのです。

 

 これは、わたしの曾祖母を思い出すとき、慰めとなります。千代さんという方でしたが、富山県(北陸)は因習や仏教の影響が強く、キリストを知りたくても、周囲から強く反対されました。礼拝には集えず、洗礼も受けられません。

 千代さんにできたのは、幼い赤子(私の祖母に当たります)をあやすために散歩をしながら聖書を読んだり、蔵で隠れたりしながら聖書を読むことだけでした。宗教行事への参加も、宗教的な貢献も何もできません。

 けれど、そのような、たたイエスの声に耳を傾けるだけの人も、「わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と言ってくださる。

 

 もちろん、聞いて行うことの大切さを、ヤコブ書などは教えます。信仰は聞くことから始まる。というローマ書の言葉もある。聞いてどうするか、それももちろん大切です。

 でも、イエスが大切にしたのは、聞いてどうするかではなく、耳を傾けることそれ自体でした。「よく聞きなさい。・・・聞く耳のある者は聞きなさい。」(4:3、9)と口を酸っぱくして言われた。聞いて何かをすることではなく、聞くこと自体を、みこころを行う、としてくれる。私達が聞くことを心から喜んでいるのです。

 

 イエスの声は、決して大きくはありません。今は受難節ですが、受難の際の、イエスの言葉は小さくか細く語られた。その息も絶え絶えの声は、周りの罵声や叫びにかき消されやすかった。

 けれど、そこで語られたのは、「わたしは渇く。」「父よ彼らをお赦しください。」「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」「完了した。」など、私達にとっての救いの言葉です。

 

 今日は、自分たちの利益や主張を大きく叫んだり、強く豊かになど耳障りの良い声を、歓迎したくなります。また、内側から出てくる、不安や恐れの声に、動かされそうにもなります。

 

 ですから、この受難節、イエスの声に耳を傾けてほしいのです。古代の人は、食べ物を控える断食をして、キリストに集中しました。わたしたちも様々な声が響く中で、イエスの声に耳を傾けたいのです。

 マタイ27章、マルコ15章、ルカ23章、ヨハネ19章、それぞれに十字架の場面が違った視点から描かれています。静かにイエスの声に耳を傾けてみてください。

 

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