2月22日のメッセージ

2026年2月22日「キリストの福音⑨マルコの福音書3章13~17節

 

3:13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。 3:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、 3:15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

 3:16 こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、 3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。 3:18 次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、 3:19 イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。

 

 

<私達をお望みになるイエス>

 次年度の教会のテーマは、 主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」(ネヘミヤ8:10)

です。私達は、神様から生きる力や希望をもらいます。神が私の生きていることを喜んでい、自分は神の目に大切なんだ、死の先の希望がある、それはとても素晴らしく、私達の喜びです。 

 そして、神と出会い、生きる力を得た私達は、それを自分のうちに留めるのではなく、上から受けたそれを分け与えるように、私達に期待してくださっていると知るのです。

 

13〜14節:イエス様は山に登ります。山は神との出会いの場所。モーセ、エリヤは、山で神と深く出会いました。同じように、弟子たちの中から、12人を呼び寄せ、12使徒として任命します。

 今までは、ただ愛され、受け入れられ、聞いていた。このあとは、イエスの願いに自分たちも参加していく、良い知らせを知らせていくのです。

 

 これは12使徒に限りません。他の弟子たちもです。マルコ6:7では12弟子が遣わされていますが、ルカ10:1では別の70人が遣わされています。同じように、キリストは私達にも期待している。もちろん、私達が今から、弟子たちの歩いた中東へ行き、同じように街を巡ることではありません。そうではなく、それぞれの場で、イエスが一人ひとりに願うように生きる、神の愛に応えて生きる、そのことを大切にしていただきたいのです。

 

 日曜日に教会に来てくださること、互いを励まし合うこと、それはみなさんにとって大切な神様への応答でしょう。とても素晴らしい。けれど、私達の応答は、日曜日や教会の中だけにとどまりません、ある人にとってはだれかに愛を表したり、心を込めて仕えたりすること、与えられた毎日を一生懸命生きること、私達の毎日が、神への応答となりえるのです。神が私に願っていることは何か、考えながら聞いていただきたいともいます。

 

<とんでもない人たちをお望みになるイエス>

 自分と12使徒とは違う、そう思うかもしれません。確かに、最後の晩餐にも出てくる12人、歴史に名を残す12人です。13節「ご自身のお望みになる者たち」、 イエスが望んだ者たちです。さぞかし立派な人々と思いきや・・・聖書に記された姿は、私たちと似た、私達の姿を見るのです。

 

 16節:まずは、一番弟子シモン(ペテロ)です。皆の中心となる人。しかし、彼は漁師。知識はありません。シモンは葦、の意味。『人間は考える葦である』という言葉があるように、弱さの証でもあります。まっすぐな性格でしたが、誰が偉いか、自分は人と比べてどうか、ばかり気にしている。的外れなことばかり言ってよくイエス様に呆れられる。自分の都合をイエスに押し付ける。ゲッセマネの園ではイエスを見捨てて逃げ、自分可愛さに、3度もイエスを否定する。イエスの十字架を見ずに、ずっと家に隠れて震えていた。(人目を気にしすぎるあまり、パウロにしかられたりと、人に影響されやすかった。  

 

 17節:雷の子は、雷のような者、という意味で、気性の激しさを表します。ヤコブ・ヨハネは切れやすい。サマリヤ人を殺そう!と言ったり、イエス話をする人を無理やりをやめさせたり、偉くなりたがったったり。「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」(ルカ9:54)

イエスの意図より、自分の意図が先行する。イエスに戒められるのもしばしばでした。

 

 18節: アンデレはぱっとしない漁師、マタイは反社会的な取税人。トマスは疑り深い人、熱心党員シモンは当時のテロリスト・武力革命主義の超過激派でした。

 

19節:そして、イスカリオテのユダ。自分を裏切り、敵に売り渡すものです。

 

 愚かで、理解が遅く、疑り深く、自己中心で、イエスよりも自分の都合ばかり優先する。最後にはご自分を裏切り、イエスなんて知らないとまで言う。下手をしたら、私たちとそれほど変わらない人達。イエスは、このような者たちを、お望みになったのです。

 

 理由はわかりません。けれど、不思議なことにイエス様は漁師や取税人に(しかも欠点だらけの)、声をかけて呼び、さらには12使徒にまで選ばれた。

 理由が私たちの側に出なく、神の側にあるのです。だから、とんでもない人を選ぶし、とんでもない私たちをも選ばれた。

 イエスは弟子たちに言いました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネの福音書15章16節)私たちは神に望まれた。神が私たち一人一人をお望みになったのです。

 

<さらに「身近に置」こうと招くイエス> 

 わたしには何もできません、期待されても・・・そう思うかもしれません。けれど、まず、何かしなさいといったわけではないのです。

 イエスが12使徒を選んだのは、「彼らを身近に置」でくためでした。直訳はイエスと共にいるように、です。何かを任せる前に、まずは弟子たちを、今までよりさらに近くに、いよいよ共にいるように、と願ったのです。

 これは、文脈が大事なのですけど、イエスの人気の一方で、2章からは権力者からの批判や、3章では噂が流布され、家族からの不信などもある。弟子として従っていたのに、離れる人もいたでしょう。疑問を持ったり、くじけたり、恐れたり。そんな状況の中で、もう一歩近づきなさい。私の側で私を見なさい。触れなさい、もっとわたしを知りなさい。何かをしなさい、以上に、わたしを知りなさいと招く。

 

 知るというのは、単なる知識ではありません。頭ではなく、身体で、肌で、身をもって知ることです。ヘブライ語では、ヤダーという言葉。それは夫婦の密接な結びつき、を意味します。

 

 12弟子の一人、ヨハネはイエスの近くにいたことを表すように、こう記しています。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」(ヨハネの手紙第一1:1)ヨハネは近くにいたからこそ、共にいたからこそ、イエスを、いのちのことば、だと言えたのです。

 

 私達は、キリスト教文化・教会文化・聖書知識、を知るのではありません。イエス・キリストについてではなく、イエス・キリストを知るのです。この方がどれだけ、善い方か、憐れみ深いか、聖書を通して、教会を通して知るのです。

 

 12使徒は、このキリストとの深い関係の3年間を通して、育っていきました。(本格的な活動は十字架のあとです。)。この3年を通して、イエスの考えに、イエスの心、イエスの歩みを知っていった。もちろん失敗や弱さも多く、最後は裏切ります。けれど、この3年が土台となって、根となって、、ペンテコステで神の霊に強められ、後の活躍があったのです。

 

 迷っても、揺るがされても、悩んでも、踏み出せないでも、失敗しても、くじけても、よいのです・・・立派なことも、宗教的なことも、無理やりしなくて大丈夫です。イエスを知ること、それが信仰の根です。イエスの願いは、まず何より、私を知ってほしい、私と深く出会ってほしいということです。

 

 それは、人それぞれだと思います。ある人には、より静かに祈ること、ある人にはより時間を取って祈ること、ある人には聖書をよりゆっくり読むこと、ある人には神が心に働きかけてくれることに応答すること、ある人には心を奪うものから離れること、などいろいろでしょう。

 

 今は、復活祭(イースター)にむけた受難節(レント)に入りました。古代より、洗礼を受ける備えであったり、身を慎みより神に心を向けるための時期です。

 

 天から地へ降り、神から人となり、あなたの隣へと近づいてくださった神は、(その距離とは比べられませんが)あなたもわたしに近づくようにと招いてくださいます。
 あなたにとって、神を知ること(礼拝に来てくださること以外に)は何でしょうか?イエスの近くに呼ばれることはどんなことでしょうか?

 

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