毎日の聖書3月2日〜

おざく台教会毎日の聖書 3月2日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

3月2日(月)詩篇23篇

1節「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」 

 わたし達は欠乏を恐れます。もっともっとと求め、いつも不安であり、分け与えることをためらい、失いそうになると攻撃的に豹変します。私達は弱く乏しいのです。だからこそ神を必要とするのです。あなたを導く羊飼いである神を思い巡らしながら、この詩篇をゆっくり祈ってみてください。 

 

「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(黙示録22:17)

3月3日(火)詩篇24篇

1節「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」 

 全ては神のもの、そう言いながら、人間は、土地を、権利を、富を、奪い合います。神のものは、握りしめるのでなく、そっと手に置くだけ、そう聞いたことがあります。握りしめれば壊してしまいますが、手にのせるだけなら、誰かに差し出すことも出来るのです。 

 

「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。・・・与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6:36~38)

3月4日(水)詩篇25篇

1節「主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。」 

 「あなたがいつも心を結び付け、慕い求めるものこそが、あなたが本当に礼拝しているものだ」、そう宗教改革者ルターは語りました。私達は目を、耳を、心を、魂を、何に向けているでしょうか?「You are what you eat」(何を食べているからあなたを決める)という表現を引用し、「You are what you worship」(あなたはあなたが礼拝するものに似る)と言った牧師がいました。私達はキリストを礼拝し、キリストに似たいのです。 

 

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 (第二コリント3:18)

3月5日(木)詩篇26篇

1節「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。」  

 生きていれば不当な扱いを受ける時もあります。人の悪意に翻弄され、ただ泣き寝入りする時もあるでしょう。そんな時でも、どうか神と人の前にへり下り、誠実を貫いてください。その誠実さは決して無駄にはなりません。地においては神があなたを弁護してくださり、天においては報いが用意されているのですから。 

 

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:9~10)

3月6日(金)詩篇27篇

4節「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」 

 キリスト教は文化や教養として大変魅力的です。教会の人の存在は喜びであり励ましです。しかし、いつの間にか大切な神ご自身が忘れ去られてはいませんか?今日ゆっくり時間をとって、こどものような純粋な心で、何も飾らない裸のままのあなたで、神さまとの会話を楽しんでみてください。 

 

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

3月7日(土)詩篇28篇

7節「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。」 

 困難な時、わたしたちは状況の変化を求めます。欠乏には充足を。病には癒しを。逆風には順風を。もちろんそれらを祈り求めてよいのです。しかし、ある牧師から聞いたことがあります。「祝福ではなく、祝福の源である方を求めよ。」主と共にあるなら、嵐の中でも、そこは神の国になるのです。今日、神ご自身を呼び求めてみてください。 

 

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ5:14~16)

3月8日(日)詩篇29篇 

1節「力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。」 

 私達は自らの弱さのゆえに、立場や権威や力や物に固執します。それらを自分の心の支えとしているため、それらが自分の手を離れるのが不安で仕方ないのです。しかし本来は神から預けられただけのものを人間が力いっぱい握りしめても、正しく扱うことはできません。それらは、手の上にそっと乗せるべきもの、いつでも神へ、人へ、差し出すべきものです。私達が握りしめる手の力を緩める時、私達は神に預けられたものを正しく保ち、用いることが出来るのです。 

 

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(ルカ20:25) 

 

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