9月14日のメッセージ

2025年9月14日「喪失の再確認、恵みの再発見」

IMG_20211024_081356

2 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが、『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。・・・

6 そのとき、口を手に当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて飲んだ。7 そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」

 

<喪失と私達>

今日は敬老の日を覚えた礼拝です。敬老の日は、1947年(昭和22年)9月15日に、兵庫県の村で「敬老会」を開催したのが始まりであるとされています。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨から開かれたもので、農閑期で気候も良い9月に、55歳以上を対象に催されました。。しかし、ただの敬意ではなく、昭和22年当時は終戦後の混乱期で、子供を戦場へ送った親たちも多く、命や希望が失われた喪失の時期に、大切な存在を失い、失望した親世代を励ますべく開催されたそうです。

 

私達は戦争のような意味での大きな喪失を現在は、経験していませんし、災害なども含め、これからも、こども達の時代もそのような悲劇的な喪失がないようにと願います。

一方で、私達は、日々、様々な喪失を体験します。

 

ヨブ記には「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。」(ヨブ記1章21節)という言葉があります。

私達は、力のない、何も持たない赤子として生まれました。そこから、体力、知力、能力、知識や経験、立場、名声、所有物、人間関係など、様々なものを獲得し、所有します。キリスト教保育では、Doing(出来ること)やHaving(持っているもの)とも言います。

 

けれども、突然それらを手放したり、失ったりするときがあります。また、年齢重ねるとともに、頼りにしていたそれらは、少しずつ失われていきます。立場、仕事、人間関係、体力、記憶、をはじめ、自信の源、自分の拠り所となっていたものが、失われたり、上手く働くなったり、以前のような意味を持たなくなる時があります。

私達は何も持たない、人の手によって生かされる赤子として生まれ、(もちろん内面では得ているものは多いですが)やがて何も持たず、人のお世話になる赤子のようになり、世を去るのです。そのように、手放していく過程、失われていく過程は、多くを持たないものになることは、私達を不安にさせ、心を、存在を、大きく揺るがします。

 

<自分にはなにもないと思ったときに>

聖書の士師記には、自分の手にはなにもないと嘆いたり、手にあるものを手放していく過程を経験したギデオンという人物が登場します。

ギデオンは、国の中でも弱い部族の、その中でも力のない人物でした。そして臆病でした。ギデオンは、早々に自分自身を諦め、他の国との戦いの中で、役割を投げ出し、自分だけ隠れます。すると・・・

 

6:12 主の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」・・・6:14 すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」 6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。」(士師記6章)

ところが神はギデオンのところへやってきて、「勇士よ。」(12節)と語りかけます。ギデオンという名は「強い戦士」という意味を持っていますが、ギデオンの実際の姿は、弱く臆病でした。ところが、神の目に映るギデオンは勇士だった、神が共にいるなら、名実ともにそうなれるのだと、神がギデオンを信じてくれていたのです。ただ、神様だけは彼が本当は何者であるか、何者になれるかを知っていました。

 

私達は自分自身をどう見ていますか?喪失の中で、自分にないものや自分が失ったものを持つ人、多くを所有する人と比べる中で、自分を、つまらない者、価値のない者、意味のない者、何も出来ない者、結局は変われない者、神に愛されない者・・・・そんな風に自分を見てはいないでしょうか?

現実や他の人に目を向けることは必要です、自分が自分をどう見るか、人が自分をどう言うか、それも大切です。けれどより大切にしたいのは、神様があなたをどう見ているかです。神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と呼びかけてくださる。そして、聖書を通し、私達を、「わたしの愛する子」(マルコ1:11)、「聖なる者」(Ⅰコリント6:11)、「宝」(詩編135:4)、「神の子ども」(Ⅰヨハネ3:2)と呼びます。神は、キリストの愛と憐みを表す存在として、私達一人一人をそのような者として見て、期待しているのです。

 

<あなたのその力で〜神がともにいるから〜>

実際にギデオンは、臆病者でした。力を持たない者でした。ギデオンは必死で弁明します。「私には無理です。私は弱く、小さく、力なく、つまらない存在です。私にはその務めはできません。誰かの他の人にお願いします。」

そんなギデオンに、「あなたのその力で行き」(6:14)と神様は言います。そして続けます。「わたしがあなたを遣わすのではないか。」(6:14)と、「わたしはあなたといっしょにいる。」(6:15)ギデオンの力がいかに小さくても、私たちの力がいかに小さくても、神様がいっしょにいるから大丈夫だというのです。あなたの力の無さは関係ない、私がともにいる、そう励まし続けます。

この後、神様は32000人の仲間を与えます。これでなんとかなるのでは?ギデオンは、そう思ったでしょう。けれど神は22000人を帰らせ、10000人に減らします。1/3以下になり、ものすごい損失です。その後さらに300人に減らします。もう何も残っていません。お終いです。

けれど、そのわずかの、かけらのような、力で行けというのです。神様にとって、私達が、これなら十分、これなら足りない、と考える基準とは違います。大切なのは神がいっしょにいるという約束です。神が必ず助けてくださる。

 

これは別に、私達や教会が、大赤字の一文無しでも大丈夫とか、少人数でも無謀な計画しましょう、という意味ではありません。(おざく台は、現実を踏まえ、先を見据えているからこそ、この会堂を購入し、牧師が働き、オンライン礼拝を併用しています。)

大切なのは、目に見え、実感でき、数値化できる数以上に、神がともにいてしてくださることが必要、ということです。

自分の力は大切です。気力も体力も必要です。でも、私達の信仰の歩みは、罪に打ち勝つのは、キリストに変えられていくのは、自分の能力だけでは成し遂げられませんし、人を祝福することも、自分で自分の魂を救うことはできません。それらは、キリストが共にいてしてくださるから、キリストと結びつくからこそ、実現していくのです。

 

だから私達は、どうせ無理だと、自分が変えられることを、人間関係を、人や自分の救いを、諦めなくていい、別の誰かに任せなくてもいい、もっと成長したらと待たなくてもいい、今のあなたのその力で、今のままのあなたで応えるところから、始めればいいのです。

喪失の恵み、老いの恵み、という話を高齢の牧師から聞いたことがあります。

自分は、力を失い、気力や記憶を失い、立場や任される役割も減っていく。今までの働きどころか、日常生活にも影響が出て、自信がどんどん揺らいでいく。やがて、赤子がベビーカーに乗るように車椅子に乗り、赤子が離乳食を食べさせてもらうように柔らかな食事を人の手で食べさせられるようになる。手に入れたものを、すべて手放すことになる。

なぜですか神様と、問いたくなった。けれど、喪失、衰え、老い、やがての死、それらに良い面があるとしたら、良い面を見出すとしたら、他のなにでもない神に頼るようになること、すべてを失っても神を持っていること、誰に忘れられても必要とされなくても、神は忘れず必要としてくれること、そのことをいよいよ実感できるようになること、だそうです。

 

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ書46・3b〜4)

 

私達は、どこかで自分が成し遂げる、自分の力で天国に入る、そう思ってしまう。けれど、何もできなくなったとき、やがて天に迎えられる日に、この言葉が、そして信仰がほんとうの意味で分かるのかもしれません。

 

<あなたの角笛を吹く>

ギデオンは、神様に励まされ、弱いままで、たくさんの戦力を失ったままで、「角笛を吹き鳴らし」(士師記7:19)ました。神様はそれを待っていたかのように、ミデヤン人の陣営を乱しました。

 

 主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。Ⅱコリント12:9~10

 

私達もギデオンのようにそれぞれが、頼りを失ったもの、力のないもの、臆病なものかもしれません。しかし、神は、私達を「勇士よ」と呼び、「あなたのその力で行」けと送り出し、「わたしがあなたとともにいる」と誓うのです。

あなたが恐れ、諦め、逃げ出している、あなたのミデヤン人は何でしょうか?わたしたちもまたギデオンのように、自分の罪や古い性質に対して、過去の痛みや傷に対して、難しい関係に対して、自分や人の頑なな心に対して、そして、やがて来る死に対しても、ともにいてくださる神に信頼して角笛を吹くのです。

 

私達は何も持たないのではない、すべてを失ったのではない、神がともにいるのです。

 

Top