毎日の聖書9月1日〜
ざく台教会毎日の聖書 9月1日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
9月1日(月)第2列王記5章
17節「そこでナアマンは言った。『だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿に入って、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。それで私もリモンの神殿で身をかがめます。私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。』」
私達は、神を愛することと、神に遣わされた場所で自らの務めを果たすこと、との間に時に葛藤を生じることがあります。ナアマンは、神を愛するために神だけを拝み、人を愛するため主君の介助をします。様々な状況があり、正解は分からないかもしれませんが、ナアマンのように、いつも神に尋ねながら歩みたいのです。
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ルカ10章27節
9月2日(火):第2列王記6章
17節「そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」
状況の悪さに恐れおののいている若者に、私達人間の姿を見る気がします。私達は彼のように目が開かれる必要があるのです。最悪の状況の中にも、共にいてくださる力強い神を見る必要があるのです。『どうぞ、私達の目を開いて、見えるようにしてください。』
「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」使徒26:18
9月3日(水)第2列王記7章
19節「侍従は神の人に答えて、『たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか』と言った。そこで、彼は、『確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない』と言った。」
私達は合理的で経済的な考え方を好みます。「信仰」の名の下に無計画・無鉄砲なことには不安を覚えます。イエス様でさえ計画をして歩む大切さを説きました(ルカ14:28~32)。
一方で、神は天に窓を作られる方、奇跡によりアラムの陣営を倒す方です。無計画はいけませんが、不信仰もまた御心ではありません。イエス様は計画の大切さを説く前後に、十字架を追ってでも、すべてを捨ててでもご自身についてくるようにと招きました。神に従う道こそが、私達のたてうる最高の計画なのです。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」ルカ14:27
9月4日(木)第2列王記8章
2節「この女は神の人のことばに従って出発し、家族の者を連れてペリシテ人の地に行き、七年間滞在した。」
聖書の言葉は、身勝手に用いないよう、語るにも、聞くにも、注意深さと畏れとが必要です。(聖書は私達の存在を無条件に肯定してくださいますが、私達の身勝手な主張や罪深い願望までも無条件に肯定しているわけではないのです。)一方で、罪を避けること、人に仕えることなど、聖書に従う道が明白な場合もあります。そして、それらは大抵は自分にとって都合の悪いことなのです。人にとっての不都合は、神の都合です。その時はどんどん従ってください。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」へブル4章12節
9月5日(金)第2列王記9章
6節「エフーは立って、家に入った。そこで若い者は油をエフーの頭にそそいで言った。『イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、主の民イスラエルの王とする。」
エフーは、大きな危険が予想される中で、命がけで神の命令に従って行動します。安全・安心を求める私達には驚くべき行動です。しかし、命がけで従うときも、必ず命を必ず守って下さるのが神だったのです。神は無責任ではありません。もちろん、神に従ったとき、苦しみにあった神の人たちもいました。けれど、神は天において彼らに良くしてくださっています。私達にとって、一番の安心・安全は。神の御言葉に従うことなのです。
「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」詩篇121篇7章8節
9月6日(土)第2列王記10章
25節「全焼のいけにえをささげ終わったとき、エフーは近衛兵と侍従たちに言った。『入って行って、彼らを打ち取れ。ひとりも外に出すな。』そこで、近衛兵と侍従たちは剣の刃で彼らを打ち、これを外に投げ捨て、バアルの宮の奥の間にまで踏み込んだ。」
エフーは、自分に与えられた王の権威を最大限に用い、偶像崇拝を退けました。中途半端でなく、徹底して偶像を処分しました。あなたには中途半端にしか神に従えていないことはありませんか?「奥の間にまで踏み込」み、罪を取り除くのです。
「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」ローマ13章12節
9月7日(日)第2列王記11章
8節「一般の人々はみなバアルの宮に行って、それを取りこわし、その祭壇とその像を徹底的に打ち砕き、バアルの祭司マタンを祭壇の前で殺した。祭司エホヤダは、主の宮の管理を定めた。」
聖書では、偶像とは、他宗教の神々としてだけでなく、私達の心を神からそらし、神に背かせるあらゆるものを指しています。人物、所有物、評判、地位、財産、そういった本来良いものさえも、偶像になりうるのです。あらゆるものを偶像にしてしまう罪の性質は、欲望は、私達の内側に潜んでいます。
私達はそれらに支配されるのではなく、私達がそれらを支配(正しく管理)するのです。信仰者と神との関係は、婚姻関係に例えられますが、神が私達に誠実なように、私達も神に誠実でいましょう。
「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」コロサイ人への手紙3章5節
