9月7日のメッセージ

2025年9月7日「悲しみの再確認、恵みの再発見」

IMG_20231001_083553

9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。 9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。 9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」 9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。 9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。 

 

<涙を流せる教会に>

最近いつ涙を流しましたか?人は、喜びや共感、悲しみや痛みにより、心が大きく動かされたとき、生理反応として涙が流れます。
なぜ人に涙という機能が与えられているのでしょう。理由の一つに、脳を、心を、リセットするという役割があるそうです。涙が流れるときには、身体の中でこんな事が起こっています。脳の感情を司る部分が強く興奮すると、ストレスホルモンの分泌を抑える信号が送られ、ストレスが和らげられます。そして、緊張状態で働くアクセルのような交感神経から、リラクスしたブレーキのような副交感神経へと、自律神経が切り替わります。

涙は、ストレスや緊張でこりかたまった私達の頭や体を、ほぐし、リフレッシュし、新しく歩み出せるように、リセットするのです。ですから、感動する映画を見て、気分を一新する「涙活」というのもあるそうです。もちろん喜びや感動の涙だけでなく、生きていれば悲しみの涙を流す時も多くあります。

泣くことは時に、問題や弱さと結びつけられネガティブな事として捉えられます。しかし泣くことは、私達が困難の中でも生きていくため与えられた大切な機能、それでも生きていこうとする身体の意思の現れでもあります。ですから泣いてもよいのです。緊張したまま無理をし続けるのではなく、安心して泣けることこそが、私達には必要なのです。

教会には、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)という大切な命令が与えられています。教会は、否定されず、指を刺されず、誰もが安心して泣ける場でなくてはいけません。それこそが教会の健全さの基準です。私達は良い時だけでなく、泣きたい時にこそ、教会に足を運び、たくさん涙を流し、新しく歩みだすのです。

<悲しみは誰かのせい?>

9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

 

なぜ、弟子たちはこんな冷酷なことを言うのでしょう?人格や尊厳を傷つける暴力的な言葉ですし、カルト宗教のような考えです。

けれどこれが当時の常識、彼らの頭を支配する恐ろしい物語だったのです。(旧約聖書のヨブ記には、家族に悲劇が降りかかり絶望していたヨブに、3人の友人が訪れ「この不幸は、あなたの隠された罪が理由に違いない!」と責める場面があります。)病、障碍、貧困、事故、災害などは、罪に対する神からの罰だと、考えられていたのです。彼らの頭の中にある神は、帳簿を手に、人々を見張り、事細かに人の罪や落ち度を指摘し、罰し、不幸にあわせる因果応報の神でした。

そのような神理解の中で、社会では、病や障害、問題や痛みを抱えた人は、見下され、指指差され、押しのけられました。逆に豊かさ、健康、地位、能力や魅力など多く持つ人は、正しさゆえの神からの祝福されているのであり、真っ先に天国に入れられると威張っていたのです。

 

病は、障碍は、問題は、悲しみは、あなたが幸せでないのは、罪のせいだ、神の罰だ、信仰が足りないのだ、歩みが悪いのだ、と言われたことはないでしょうか?そこまで露骨ではなくても、問題や悲しみを抱えているのは、自分のせいなのでは?神に愛されていない、大切にされていないのでは?、そう考えたことはないでしょうか?

 

確かに聖書には、従順は幸いにつながり、罪は不幸をもたらすという言葉や事例もあります。けれど、一時が万事ではないのです。逆に、詩篇は、なぜ悪が栄える、善人が苦しむのかと、神に訴えています。そんな時大切なのは、キリストの言動です。

イエス様は、誰より信仰深く歩みました。けれど、その生涯は、不幸と、涙に満ちていて、「悲しみの人」(イザヤ53:3)とも表現されます。このような方が、神であり、救い主なのです。このキリストの姿は、悲しむ私達への慰めでもあります。誰よりも正しい方が、誰よりも苦しんだ生涯は、当時の人々の頭と心を支配する恐ろしい物語、私達の歪んだ神理解をひっくり返すメッセージです。悲しみは、神からの罰や呪いでは決してないのです。

 

<イエスの知っていた神様に出会う>

「悲しみの人」イエスは言うのです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。」(3節)イエスは病も、苦しみも、災害も、神からの罰と安易に単純化して決めつける愚かな考えを強く拒まれました。(ルカ13:1〜5)

そして、「9:3この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。・・・9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」 

イエス様が世の光だと、様々な価値観が渦巻く、暗く迷った世界の指針だと言うのです。わたしのすることが、神の業であり、神の心、人の光だと言うのです。

 

1節から振り返りたいのですが、『イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。』 のです。気にもとめないのではなく、見下すのでなく、しっかりと目を留められたのです。この人は、ユダヤ人が神からの祝福の、髪に目を留められる条件と考えていた、善行や宗教行為も何も行っていません。それでもイエスは、一方的に目を留められたのです。

そして、イエスはこの目の見えない人の耳に響く言葉で、『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』(3節)と言われました。これは、「この人にこそ、神のわざが現れなくてはならない。(現れるべきだ)」とも訳せます。罪人は不幸になり神に軽んじられ、立派な人は幸せになり神に尊ばれる、と考えられていた時代に、そうではなく、このように悲しむ人をこそを神は尊ぶのだ、というのです。彼にとって呪いとなっていた古い物語をはっきりと否定したのです。『あなたのせいではない、両親も悪くない。神はあなたを呪っているのでなく、神はあなたに心と手を向けられるのだ、あなたは愛されているのだ。』そう語ったのです。

 

そして6節です。『地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って』 当時の宗教の指針(タルムード)には、つばを吐いて作った泥を目に塗って人を癒やしてはならない、というものがありました。異教の文化を真似るな、そんな意味があったそうです。けれどイエスは、あえてそれを行います。あなたを苦しめ、傷つけた呪いのような言い伝えにこれ以上縛られるな、というメッセージです。

 

そして7節「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」

もちろんその場で、別の方法で癒やすことも出来たでしょう。けれど、あなたは罪人でも、無価値なものでもなく、神に応えることのできる素晴らしい存在だ、そう励ますかのようにチャレンジをします。彼を信頼している証です。

世の光である方の、この盲人との関わりは、この癒やしの出来事は、神がこの人を、気にかけておられること、愛しておられることを、はっきりと示しました。神は、私たちを見張り、怒り、罰する神ではないのです。ただただ、どんな人にも、憐み深く、慈しみ深い、良いお方であることを、世の光であるイエスは身をもって現したのです。

 

私たちが自分を測る物差しは、イエス様の言動です。誰よりも正しく、誰よりも悲しまれたその生涯、そして、今日の言葉です。イエス様の目に、そして神の目に、どれだけ悲しみの中にいても、私達は大切で、尊く、素晴らしい存在です。
この人は、目が開かれても、生まれたときからやり直すことはできません。これからは自分で働くという、労苦の多い人生が待っています。更には、宗教家に目をつけられ、社会から追放されました。

けれど、彼は大切なものを得ました。

イエスの知っていた神に目が開かれる、それが私達にとって何より大切なことです。私達は、当時のように、因果応報の物語で自分や人を見ていないでしょうか?閻魔大王か警察官のような神にビクビクしていないでしょうか?9章の続きを読むと、この元盲人は、体の目だけでなく、心の目もまた開かれたことが、逆に、宗教家達こそが盲目であり、神の心に目が開かれていなかったことが分かります。「私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(25節)これはアメージンググレースの歌詞にも引用されています。

 

このようなイエスの神を知るなら、痛む人、悲しむ人こそが愛され尊ばれる、ことが分かります。悲しみの中でも自己卑下せず、自分を責めず、それでも誠実に生きていく、ことができます。そのような教会や私達の姿こそが、何より、神を証することになるのです。

 

Top