8月31日のメッセージ

2025年8月31日「神の創造の目的 詩篇8篇1節~」斎藤義信信徒説教者  おざく台キリスト教会                         

 

「1主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。2幼子たち 乳飲み子たちの口を通してあなたの御力を打ち立てられました。あなたに敵対するものに応えるため 復讐する敵を鎮めるために。3あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るのに。 4 人とは何ものなのでしょう。あなたが心を留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」【新改訳2017年版】

 

開きました詩篇は、古代の讃美歌の歌詞であり、今日の詩篇8編は天地創造に思いを馳せてその創造主である神様を称える詩です。そのような偉大な神が、時に愚かで罪深く、聖書の一部個所では、自戒を込めて「虫けら」とさえ表現される私たち人間に心を留める、不思議さと驚きをもって歌った讃美歌です。

聖書は、神がこの世界と私たちを造った、創造者として私たちに紹介しています。それに対して私たちは造られた存在、被造物として紹介されています。

創世記1章2節「地は形もなく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と記されています。神様はこの天地を創造するにあたってただ何となく創造されたのではなくて秩序をもって、目的をもって創造されたことを私たちは知ることが出来ます。創造の前にあったと描写される大量の水は古代において「混沌」を意味していました。そこに1日目、神が「光あれ」、と仰せられ、光があった、闇と光、昼と夜を分けられました。そして2日目に大空と海を分けられ、更に3日目に海と陸地を分けられました。混沌としていた世界に秩序がもたらされて行きます。4日目に分けられた昼と夜に太陽と月が造られ、5日目に分けられた海と空に住む生き物が造られ、6日目に分けられた陸に地上の生き物、そして最後に人間を地の塵を使って造り、いのちの息をを吹き込まれました。そしてその 人には知恵、感情、意思を持たせのです。

 

今朝の詩篇8篇1節を読むとこの世界が秩序だって創造された目的の1つにその創造のすばらしさを通して「神の御名を全地にわたり告げ知らせるため」でありました。生命の神秘、自然の雄大さ、そして何よりもこの詩篇の作者が3節で歌うように天体運行の美しさに誰もが圧倒され、神に対する畏敬の念を持つ者が神の創造の御業とその素晴らしさを再確認するようなところです。

その神様によって造られた私たち人間、誰もが目的をもってこの世に生まれてきました。そして長い人生の中で青年期、壮年期、老年期により、時代の変遷の中で、望みが達成されたり、挫折したりしながらその目的は次々と代わっていく事と思います。まだ今、その途中の方も多くいらっしゃると思いますが、謳歌していっていただきたいと思います。しかし、私たちの根本的なところで決して変わることのない、一つの大切な目的があります。

 

1600年代に作られ、今も用いられているウエストミンスター小教理問答書というテキストがあります。その問答書はこのような質問から始まります。

問:人の主な目的は何ですか?

答:神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことです。

 

この詩篇のように、私たちは造られたもの(被造物)の目的はもちろん神の愛を受け喜びことです。けれど、もう一つあります。この詩篇が言うようにただ神の愛を喜び楽しむだけでなく、私たちを造って下さった神のみ名が全地にわたり褒め称えられることです。言い換えるならば私たちの唇、言動を通して神の愛と哀れみが表されること、それにより他の人たちもこの恵みの神に出会い、より深く知って行くことということです。

 

私たちは自分の言動が、神の素晴らしさを表し、愛と恵みを表現しているか、いつも自問自答したいです。その目的を裏付けるみ言葉が続けて語られています。

2節「幼子たち、乳飲み子たちの口を通してあなたの御力を打ち立てられました。2あなたに敵対するものに応えるため 復讐する敵を鎮めるために」 私たち人間のしかも、小さな幼子たちの唇によってその神の力を立てられたとあります。確かに、イエス様が十字架にかかるためエルサレムに入城されるときに子供たちが大人も含めて「ダビデの子にホサナ」と叫んでいる記事を福音書の中に見ることが出来ます。、人々はこぞってイエス様を歓迎し、受入れました。しかし、その言葉を聞いて祭司長、律法学者たちは腹を立てます。「そしてイエスに言った。『子供たちが何と言っているか、聞いていますか。』イエスは言われた。聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れ(御力)を打ち立てられました』とあるのを読んだことがないのですか。」(マタイ21章16節)イエス様はこの詩篇を引用しました。

神に敵対する者に応えるため、復讐する敵を鎮めるために神は幼子の唇を用いたのです。祭司長、律法学者たちには知識や雄弁さが溢れていたでしょう。それに対して乳飲み子、幼子の口から出る言葉は聞きずらい言葉だけでしかないかもしれませんが、神様は敢えてそういう口から出る言葉によって神の力を打ち立てられた、と取ることが出来ると思います。ここでいう幼子というのは霊的な解釈もあるようですが、正真正銘の幼子です。イエス様は幼子たちに対して「私のもとに来させなさい、天の御国はこのような者たちのものです。」(マルコ10章14節)と仰いました。幼子のように純粋になって神を求めて行くまっすぐな言葉は、時に人の心に届くのです。「自分の言葉が足りない…自分は何も知らない」そんな風に諦めないでください。あなたなりの幼子のような、まっすぐな言葉で、神の素晴らしさを話してみてください。

 

3節からそれぞれ節が区切られ、分けられていますが、全てつながりがあるように思います。

この作者は神の創造の極みの業を美しい天体になぞらえて「あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るのに。」 と述べます。同じ神の御手の中で創造された人間。しかし、人に罪が入って来たことにより神が創造された最高傑作であったはずの人間が地に落ちてしまいました。詩篇の作者はそのことを4節から解いています。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれに心を留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

私たちは、毎日の歩みの中で様々な悩みや、人生の問題に出会うことがあります。私は小学生のころ

「人間の死」について悩んだことがあります。「なぜ、人は死ぬのか、死んだらどうなるのか?愛する家族と別れなければならない、当然父母のほうが先に死ぬ…。居ても立ってもいられなく思い、時に思い出しては夜に涙することもありました。しかし、この事は友達にも、学校の先生にも相談できるものではない…、」という子供心に悩みを持ったことがあります。人間とは、人生とは一体どういうことなのか、と子供心に痛むことがありました。やがて教会に友人に誘われて行くようになり、信仰に導かれ、イエスキリストが私の罪のために身代わりとなって死んでくださったことを知り、塵芥に等しい者のために一身に背負って十字架に掛かって死んでくださったこと、そして三日目に復活して私たちに希望を与えてくださったことを知って私の人生は変わりました。人間の死についても復活するいのちがある、現実的ないのちではないかもしれないけど天の御国においてそのいのちが主と交わり、その恵みを存分にいただくことが出来るんだ、と変えられ、今を生きています。

 

人の死の問題について、人生について色々な角度から思い悩むことは私たち人間はあります。しかし、神の恵みは常に変わることがなく降り注がれて私たちを顧みてくださるこのお方が共にいてくださることを覚えるときに長い人生の中で辛い、厳しい経験をしながらも神は不思議に道を開いてくださる、そういう体験されていただくことは少なくないのではないでしょうか。

この詩篇の作者も神の壮大な創造の御業の中でちっぽけで虫けらに等しいな人間がどれほど神様に覚えられ、事あるごとにご介入してくださり、恵みをもって支えてくださっていることを感じていたのではないかと思います。

 

5節以降は神様の御名が全地にわたり告げ知らされることを目的とするために創造されたすべてのものを治めさせるように御使いよりは少し劣る者と人間を創造し、しかし、神の似姿によって造られた人間に栄光と誉れの冠をかぶらせて下さいました。小さな人間の誇らしい姿をもって神の前に仕える姿を作者は描き出しています。

この詩篇は「人間についての賛美の詩」と称されていますが、最終的に私たち人間の生きる、生かされている目的は、この神のみ名を全地に告げ知らせ、共に神の恵みを味わうことをいただくためにこの地上に遣わされているということではないかと思います。

今週も神の恵みをいただきながら精一杯に歩ませていただきたいと思います。

 

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