8月24日のメッセージ
2025年8月24日おざく台キリスト教会「神の目に映る私達①〜土の宝〜」
<聖書>
2:7「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」
3:19〜21「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」
<自分の目に映る私達、神の目に映る私達>
皆さんは自己紹介するとしたら、どのように自分を伝えますか?どこの国に生まれ、どこで育ち、家族構成、性格、興味関心や特技などを伝えるでしょうか?履歴書ならば、学歴や職歴、資格などで自分を相手に知ってもらおうとします。
自分で自分をどう見ているか、どんな存在として理解しているか、これは生き方にも影響します。自分で自分をつまらないものとしてみれば、諦めたり、制限をかけたり、閉じていく生き方になってしまうのです。逆に、自分や自民族を特別視し、他人や多民族を軽視するなら、人の生き方もまた歪んでいきます。
教会に通う私達は、神は私達をどう見ているのか、神の目に私達はどう映っているのか、これを大切にしたいのです。
<土と変わらない私達>
聖書では、大地のチリで、土で、動物や人が造られたと紹介しています。これは、もちろん象徴的意味が込められているのでしょうが、物質的にみても間違いではありません。
この世界の全てのものは、原子(元素)という100種類ほどの小さな粒が組み合わさって出来ています。元素の組み合わせで表すことが出来ます。
私達のこの身体も、水素H、酸素O、炭素C、窒素Nの4つで95%以上を占め、他に少量のミネラル(例えば、カルシウムやナトリウム)などで出来ています。
私達の身体の材料をそろえたければ、その辺りの地面の土を掘ることで全て簡単に手に入ってしまうのです。
人は優劣をつけたがりますが、原子のかたまり、土の人形と、物質的には同じなのです。
<神に形造られた私達>
けれど、土という材料があっても、人間は作れません。泥人形ができるだけです。
土と変わらない材料が、複雑に組み合わさり、ふさわしい部品となり、驚くような仕組みで働き、意思や心まで持つ人間となりました。科学の力では決して再現できないこの不思議さに、「神は・・大地のちりで人を形造り」と聖書で言われる、神の業を感じるのです。
もちろん私達は、両親から自然のプロセスを通して、生まれました。しかし、聖書が「あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」(詩篇39:13)と語るように、親は子を組み立てたのではありません。神の業により、今の私達があるのです。
聖書では、世界の創造を、結果的にとか、偶然、とは言いません。創造は、「光よ、あれ。」(創世記1:3)という神の意思により始まります。わたしたちは、隣の人は、遠くの国に住む一人ひとりは、ただ、偶然生きているのではなく、神に「あれ」(創世記1:3)と願われて、想われて、望まれて、生きているのです。
<弱く有限な私達>
聖書は、最初の人間をアダムとエバ(イブ)として紹介しています。「アダム」と「人」は「土」と同じ言葉です。「神である主は、その大地(アダマー)のちりで人(アダム)を形造り」(創世記2:7)
また他に「人」と訳される言葉は、「弱い」という言葉から派生しています。使徒パウロも、私達のことを「土の器」(第2コリント4章)と表現します。そこにはどんな意味が込められているのでしょうか?
古代においては、人の命は短く、時にあっけなく失われるものでした。食物の確保はいつも課題であり、大人になるまで生きられないことも多く、病は命に関わることでした。聖書は人を、土(土地や大地)の塵(ちり)で造られた存在、土から生まれ、土に帰る、弱い、有限な存在として記されています。(今日は、生活水準も安定し、医療も発達し、時に人は万能のように感じます。これも神の恩寵ですが、自分の本質を忘れないようにしたいのです)。
私達のからだも、やがては衰え、死を迎えます。それを不安に感じる方もいるでしょう。私達は神ではない。やがて「土に帰る。・・ちりに帰る。」、限りある、存在なのです。
<いのちの息を持つ私達>
けれど、聖書は同じ箇所で別のことも語ります。それは、有限な身体を持つ私達は、同時にいのちの息を持っている、ということです。
実は、私達の身体を構成する無数の原子の粒は、日々入れ替わり、別の生物や、大気や、地面の一部となっています。つまり、1年もすれば、身体を構成する粒子のほとんどが入れ替わり、物質的には全くの別物になります。けれど、私達は1年前と人格や記憶は変わりません。わたし達はわたし達のままです。(「動的平衡」という概念で、関西万博のパビリオンでも紹介されています。)
聖書には神が「大地のちりで人を形造り、鼻にいのちの息を吹き込」(創世記2:7)んだとあります。まるで人工呼吸のように、そのくらいの近さ、親密さで、神からいのちの息が心が魂が、吹き込まれて、命を与えられた、と言うのです。
私達の身体は、日々入れ替わります、やがては死を迎えます。けれど、神から吹き込まれたいのちの息は、身体が日々入れ替わっても、やがて朽ち果てても、永遠に失われないのです。
伝道者の書12章7節では「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」とされます。
アダムが「土」を意味する一方で、エヴァは、「生命」、「生きるもの」を意味します。これはもちろん、男性はダメで、女性は優れているという意味ではありません。私達は人間を、自分自身をアダムとエヴァの両方から理解します。
土と変わらない私達、やがて土に帰る私達、そのことは私達を、謙虚にさせます。同時に、けれど、神に造られた身体を持ち、いのちの息を持つ私達、そのことは私達は生かされているのだという安心と喜びを与えます。
<神の宝として>
神の目に映る私達を知る時、何が起こるでしょう。神に造られ、生かされている、その創造の驚きを、詩篇の詩人は、天体に例えて、こう表現します。「3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれに心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇8篇)
誰よりも、この聖書の言葉を深く味わったであろう人物に、15〜16世紀のポーランドに、それまでの天動説に対して、地動説を唱え出版したコペルニクスだと想像します。(コペルニクス的転換、という言葉も使います)彼は聖職者(司祭)であり、天文学者であり、医者でもあったからです。
天体を美しく秩序だって運行するように、人間の体も見事に作り上げられ、精密な仕組みにより生かされている。天を観測すればするほど、人体を知れば知るほど、神の業を見て驚き、そのような神の心が自分に向けられていると聖書から知り、さらに驚くのです。
自分をあがめたり、誰かをあがめたりするのでもない、同時に、自分を卑下したり、人を見下すのでもない。土と変わらない土の器として、神と人の前に謙遜に、それでも神に造られた宝として、誇りと自信を持って、今日を明日を歩んでください。

