7月13日のメッセージ
2025年7月13日おざく台キリスト教会「主の祈りの再確認、めぐみの再発見②」
『御国が来ますように。みこころが天でおこなわれるように、地でもおこなわれますように。』 マタイの福音書6章10節
<ファミリータイム>
最初にヨシタケシンスケさんの絵本「かみはこんなにくちゃくちゃだけど」を紹介します。
この絵本は、2つのページの物語が、いくつも集まっています。
「いつかかしゅになりたいの。」「かみはこんなにくちゃくちゃだけど・・・」
「きれいなものがなにかだんだんわかってきたの。」「かたほうの目はみえなくなってきしまったけど・・・」
夢や願いや希望、喜びがある。「でも・・・」、難しかったり、悲しかったり、理解してもらえない、うまくいかない大きな現実がある。そんな話がずっと続きます。
けれど、最後のページになって、最初の子どもが出てきます。
「かみはこんなにくちゃくちゃだけど」「わたしにはゆめがあるの。いつかかしゅになりたいの。」と、ページ順序が最初と逆なのです。そして、今までの絵を、逆に読み返してみると・・・「でも・・」が「それでも!」となるのです。
<私達の毎日はどう?>
私達はどうでしょうか?「神を信じて生きているの。」でも、「この世界に希望が持てないの」となるかもしれません。「毎日積み上げているの」でも「誰かが簡単に崩してしまうの」とも言えます。この世界の現実は、遠い国でも、身近なところでも、悲しみや痛みがあります。失望があり、諦めがあります。神の心ではなく、誰かの欲望や悪意が、表され、平然とまかり通っているようにも見えます。
けれど、主イエスは、「この世界に希望が持てない。」それでも「神を信じ生きていく」ように「誰かが簡単に崩してしまう」それでも「毎日積み上げているの」となるように、この祈りを教えてくれました。
<御国の意味>
御国が来ますように、とは原語では、「国が来ますように、あなたの。心が行われますように、あなたの。」となっています。
国(バシレイア)という言葉は、場所や制度でなく・・・支配や権威を意味する言葉です(参考:「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」コロサイ1:13・「どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」第一ペテロ5:11)憐れみ深い神の心が行われている状態や領域が、聖書が意味する、御国、神の国でした。ですからこの2つの祈りは、ほぼ同じ意味です。
そして、神の心が実現している天国に行けますように・・・ではなく、神の心が実現している状態が、ここに来ますように、と祈るのです。
この世界を諦め、やがての天国を望むのではなく、この世界が天国のようになることを求める祈りです。
イエスはご自分といた、貧しい人たちや身体を売る人たちを指して、彼らと囲んだ食卓を示して、彼らは先に神の国に入っていると言ったのは、まさにこのことでした。イエスは高慢な人たちに言ったのです。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」マタイ21:32)
イエスの周囲には、誰もが愛され、尊ばれる、神の心が、天の御国が、神の心が、表現されていたからです。
一方で、神様でなく、当時なら、絶大な力で支配するローマ皇帝カエサルや、神も人も尊ばない領主ヘロデの思うままが行われていました。人々は希望を失うか、テロ行為や革命行為に命を捧げようとしていました。現在といえば、カエサルやヘロデに劣らない、国家指導者ばかりで、神の国どころか、この世の地獄、なような状況さえあります。(教会も・・・?)
みなさんの、家庭、職場、学校、それらはどうでしょうか?別にキリスト教に根ざしていなくてもよいのです。(キリスト教学校や教会、キリスト教家庭がイコールで、神の国のような場所ではないのは、誰でも知っています。教会もそうですね。牧師の願望や教団の都合が表され、全く神の慈しみを感じない、ユダヤの冷たい会堂や、地獄のようなカルト団体に成り下がっていないでしょうか?)
私達の周囲には、キリストが表したような、憐れみが、キリストがもたらすような平安が、キリストが与えるような希望が、溢れているでしょうか?
眼の前の難しさや思い通りにいかない現実、悪や不正も確かにあるのです。それでも、神の慈愛に満ちた心が、私達の場所に、私達の毎日に現れるように、また私達が神の憐れみをこの世界に、周囲にもたらせるように、これが主の祈りです。
<イミタチオ・クリステ:キリストにならいて>
イエス様はただ、私達にこう祈れと教えたのではない。イエス様自身が、この祈りに生きた方でした。イエス様は、ローマ皇帝の上に立ったり、ヘロデから君主の座を奪おうともしませんでした。ユダヤの復興や繁栄も気にしなかった。宗教社会を支配しようともしなかった。それが神の願いではなかったからです。虐げられた人も、恵まれた人も、誰もが神と出会い、その心と生活に、神の思いが現れることを願い生きられた。
今、耳を傾ける群衆は後に十字架つけろと叫ぶ、それでも、愛を表し続けた。
今、熱心に聞く弟子たちはやがて裏切る、それでも、教え続けた。
今、癒やしても、その人の魂までは変えられない。それでも、癒やし続けた。
今、自分が十字架についても人々がそれを受け入れるかは別の話、それでも十字架についた。
一人ひとりの心に、人々の集まりに、会堂に、世界に、神の国、神の心が現されるのを求めて、「それでも」と言い続けた。
<この祈りに生きる>
私達も、この祈りを祈り、キリストの後に従って、歩みたいのです。
私に、隣人に、私の生活の場に、神の心が現されますようにと。
最後にマザーテレサが好んでいた詩を紹介します。(引用)ケント・M・キース 著 大内博訳
(1)人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。
(2)何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
(3)成功すれば、うその友達と本物の敵を得ることになる。
それでもなお、成功しなさい。
(4)今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
(5)正直で素直なあり方はあなたを無防備にするだろう。
それでもなお、正直で素直なあなたでいなさい。
(6)もっとも大きな考えをもったもっとも小さな男女は、もっとも小さな心をもった
もっとも小さな男女によって撃ち落とされるかもしれない。
それでもなお、大きな考えをもちなさい。
(7)人は弱者をひいきにはするが、勝者のあとにしかついていかない。
それでもなお、弱者のために戦いなさい。
(8)何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きあげなさい。
(9)人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると
攻撃されるかもしれない。
それでもなお、人を助けなさい。
(10)世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
それでもなお、世界のために最善をつくしなさい。

