7月6日のメッセージ
2025年7月5日おざく台キリスト教会「主の祈りの再確認、めぐみの再発見①」
だからこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』
マタイの福音書6章9節
<主の祈りのこころ>
幼稚園でも、中学でも、高校でも、礼拝で必ず主の祈りを祈ります。昨年祖母が召された際には、葬儀で、出棺で、火葬で、収骨で、日に4度祈りました。
「わたしの生活はわたしの祈りであり、わたしの祈りは、わたしの生活です。人は生きたように祈り、祈ったように生きます。」そう、カトリック司祭が話してくれました。祈りとは日々の生活と切っても切り離せません。「You are what you eat (read).」という外国のことわざがありますが、キリスト教徒は、「You are what you pray.」なのです。このように祈りなさい、とは、神の子とされたあなたは、このように生きなさい、とイエス様が私たちの生き方を示してくださったのです。
そして、主イエスの教えたこの祈りは、今日の世界に必要だと思うのです。
主の祈りは、「だからこう祈りなさい。」で始まります。文脈があるのです。
1節からは、偽善者(宗教家)の祈り、異邦人の祈りがあります。偽善者の祈りとは、宗教を利用し、自分の立派さを見せびらかす、自分を大きくする自己中心・自己満足の祈り、生き方です。また、異邦人の祈りとは、欲しいものを言葉数多く繰り返す祈り、神を利用し、自分の願望を実現しようとする強欲の祈りです。
今日、宗教を語る国家でさえ、欲望と願望のままに、命と土地を奪い、自分を正当化し、自分たちを大きくしようとする、そんな姿が目につきます。私達は、宗教偽善者の祈り、異邦人の祈りに生きてはならない、主の祈りに生きたいのです。
<天にまします我らの父よ>
イエス様が示された生き方は、神様を、天にいます私たちの父、と呼ぶ生き方です。神と人との関係は、羊飼いと羊、花婿と花嫁、主人としもべ、王と国民、陶芸家と器、ブドウの木と枝、など様々に例えられますが、イエス様は・・・父と子を選び教えました。
イエス様も、祈りの時に、父よ、と祈っていた。そこには親密さがありました。
聖書は、私たち人間にとって神様を父と呼ぶことは、自然なこと、だと教えています。本来、宗教とは、(Religion)=ラテン語はReligioで再び(Re)・結びつく(Ligare)切れていたものが、繋がれる、という意味の言葉です。ルカ15章の、放蕩息子や、羊のように、離れていたものが帰って来る、迷っていたものが見つけられる、断たれていた関係が回復する 一度背を向けた、神の子達が、父のもとに帰っていく。人にとって父なる神様を愛し、礼拝することは、特別な事ではありません。父なる神様を無視している状態こそが、不自然である。そして信仰とは神様のもとへ帰ること。自然な、あたりまえの、本来の、あるべき、関係を取り戻すのが信仰なのです。
しかも、イエス様は、宗教的に地位の高い祭司や、宗教知識の豊富な学者、など義人と呼ばれ、地位の高い人に向けて、この祈りを教えたのはないのです。
田舎のガリラヤ地方で、地の民(天の民の反対語で、軽蔑語)と蔑視され、見下されていた人々に、貧しく・乏しく、虐げられていた人々に教えたのです。
神を父と呼んでいいんだよ、人が何と言おうが、神はあなたに父と呼ばれたいんだよ、と教えたのです。
そして神様について教えるとき、(山上の垂訓:マタイ5~7章)、「天の父は」、「あなたがたの父は」と、神様を愛と思いやりに溢れた父に例え、天の父はあなたを見つめ、あなたの声を聞き、必ず良くしてくれる、だから、この父に信頼しなさい、と口を酸っぱくして何度も何度も教えられました。
恐れや不安の中にある人は、宗教偽善者の祈りに、異邦人の祈りに、生きてしまいます。(またはその主張に、利用されてしまいます。)まるでお金や権力や武力が神であるかのように頼るのです。けれど、天の父は、貧しいものと共にいて、支え、救う方です。この父に頼る安心感に生かされ、宗教家や異邦人の祈りとは違う道を選び歩みたいのです。
<御名があがめられますように>
「御名があがめられますように」をどんな意味で祈っていましたか?評判が良くなるとか、人気が出るとか、広まるとか、そのような意味ではないのです。
それならば「拡大する」という意味の「メガルノー」があります。けれど、「聖なるものとされる」という意味の「ハギアゾー」が用いられています。
メガルノーの「メガ」とは巨大の意味であり、数字につくと100万を意味します。(データの単位でMbメガバイトなど)今日「マガ」・「メガ」など、自分たちを偉大にする、そのためには人を人とも思わず、悪を悪ともせず、あらゆる手段を用いる、そんなキャッチコピーがいたるところで掲げられ、選挙の帽子やシャツに記されています。「メガルノー」は、偽善者(宗教家)の祈り、異邦人の祈りです。
メガルノーの祈り・生き方は、弟子たちも同じでした。自分が弟子の中で一番になりたい、国家が力と繁栄を取り戻したい、そのためにイエスに頑張ってほしい・・・弟子たちが今日にいれば、こぞって残虐で傲慢な指導者達を支持したでしょう。
しかし、イエス様は、「メガルノー」を用いませんでした。そうではなく、あなたがたはこう祈りなさいと、「ハギアゾー」を用いたのです。
カトリックのミサでは、主の祈りを、御名があがめられますようにでなく、御名が聖別されますように、と祈っていました。御名とは神さまご自身をあらわしますから、神さまが聖なるものとして、特別なものとして、他のものとは区別されますように、という意味です。
これは、単なる区別や差別、切り捨てとは違うのです。聖書に何度もでてくる、パリサイ派という人々は、「分離主義者」という意味です。汚れた行為、汚れた人々から自分たちを引き離し、聖さを保つのだ、と主張し、様々な決まり事を作り、守れない人を罪人、汚れたものと、聖俗二元論で、線引をし、切り捨て、見下す社会を作りあげました。
けれど、イエス様はそのような人々のところにこそ向かいました。放蕩息子の父は、身も心も汚れた息子に走りより抱きしめました。私達の神は、汚れにさえ近づき、十字架でその身に引き受ける神です。
「聖別される」とは区別されますようにという意味です。けれどそれは、基準や数値により、合否が出るような区別ではありません。神様が、神様の憐れみが、すごいものだ、特別だ、という意味での区別です。
罪人の食卓にイエスが着いた時、汚れたとされる者にイエスが手を触れた時、十字架で聖なる神が汚れを引き受けた時、壁が壊され、線が消され、人の作り上げた区別に橋がかけられた時にこそ、御名があがめられた、御名が聖別された、神の愛の特別さが示されたのです。
キリスト教国では、ガザ地区に降らせるミサイルや戦車の資金を提供することが、「御名があがめらる」ことだと信じる人がたくさんいます。(一方、私達の教会は、ガザ地区への支援団体にわずかばかりの献金を送っています。)本当にそうでしょうか?今や、キリスト教は、最も嫌われる宗教に成り下がりました。
けれど、本当に「御名があがめられる」とは、宗教や歴史の違いを超えて、ガザの方々が保護され、尊ばれ、自由と安心を得る、そのためにキリスト教国が悔い改め、行動することなのだと思います。
御名があがめられますように、キリストの想像を超えた愛が現されますように。これは私達の祈りであり、生き方です。この祈りに生きることは大変です。けれど、父なる神がいてくれる、だから私達は日々こう祈り、わたしを通して、神の愛が現されますようにと祈り、毎日を生きたいのです。
