7月20日のメッセージ

2025年7月20日おざく台キリスト教会「主の祈りの再確認、めぐみの再発見③」

 

<マタイの福音書6章>

『11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン〕

14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。』 

 

<大切な注意>
今日は国政選挙ですね。様々な議論がありますが、忘れないでいたいのは憐れみの心です。私達は、互いに足りないところがあり負担をかけたり、時には失敗をし迷惑をかけます。様々な意味で、互いに負い目のある存在とも言えます。(この箇所では、宗教的な罪でなく、負い目や負債、必要を意味する言葉が用いられています。)

私達はキリストではないので、誰かの魂の罪を赦すことは出来ません。けれど、負い目をゆるし、受け入れ、その人と回復の道をともに歩むことは出来ます。

「わたしたち」とあるように、これは個人の祈りではなく、教会の祈り、教会にこうあれ、とイエス様が示した道しるべなのです。

 

一方で、注意していただきたいのです。教会の中でも、人権侵害、性加害が、知られている以上にあります。それらの被害者が加害に対して口を噤んだり、声を上げた人の口封じのために使われてしまうのがこの箇所です。

被害を告発すれば、人の罪や悪を赦さないことになる、そうすれば自分は正しい信仰者ではなく、神もわたしの罪を赦さないのだと考えてしまう人もいるそうです。

また、被害や人権侵害を受けたのに、それを正すのでなく、赦すべきだと、被害者にプレッシャーがかけられ、ゆるしの責任が与えられ、そのまま問題がもみ消されたり、誤魔化されたりしてしまう。

教会が聖書を悪用し、被害者や、マイノリティを苦しめてきたこと、加害者や悪を野放しにしてきたことを覚え、教会が教会であるために、祈り、私達も注意していきたいと思います。

<ゆるしのたとえ話>

ゆるしとはなんでしょうか。許可、免除、忘却、怒りの抑制、様々に捉えることが出来ます。同じマタイの福音書に18章にゆるしに関するたとえ話が参考になります。これを共同体の文脈で読みたいのです。マタイの福音書全体、そして、18章は教会の文脈で記されています。主の祈りは、「わたしたち」と祈るように、教えられていますので、「ゆるし」もまた、教会として読みたいのです(福音書に、「教会」と出てくるはマタイの16と18章だけです。)

 

兄弟を(教会の仲間を)何度までゆるすべきか、と訊ねたペテロに、イエス様は、天の御国は・・・と話しはじめました。

 

1.赦しの先行

まず登場人物が、多額の負債(今日で6000億)を免除されています。赦したから、赦されるのではない。順序が逆、王の憐れみが先にあるのです。そして、免除される額も、私達のゆるしとは、文字通り桁違い(60万倍)なのです。

主の祈り全体に言えることですが、天国に入るための条件・チェックリストではない。すでに赦され、愛されたものが、どう生きるかの指針なのです。

ジョン・ストットは、山上の説教は、神の国の入国審査でなくマニュフェスト(宣言)、と述べました。

ヨハネス・エレミアス、山上の説教のすべての言葉の前に、あなたがたは救われた、とつけて読みなさい、と励ましました。

ここは言い換えれば、6億見逃してもらったのに、1000円貸しのある人にひどい扱いをした、(本当は6000億と、100万)そんな、おかしくなってしまった人のたとえ話なのです。

たとえ話は、すべての真理を表すものでなく、1つの真理を伝えるものです。神に愛されたものはこうなってはならないよ、という大切な指針なのです。

 

2.悔い、憐れみを懇願している相手

登場人物も、登場人物がひどい扱いをした人も、開き直ってたり、誤魔化していたりしない。非を認めている。赦しを求めている、憐れみを懇願している。むしろ、保証をする、必ず借りを返すとまで言っている。この箇所は、悪や不正、不条理を受け入れろとは言っていないのです。憐れみを請い求める相手に対してどう向き合いますか、という問いなのです。

 

3.免除以上に、憐れみの強調(33節)。

王様は、憐れんだことを、強調しています。借金の帳消しの行為以上に心について語っている。自分(自分たち)に負債があり、それを謝罪し、変わろうと行動する人、憐れみを求めるものに対して、憐れみの心で向かうように、と教えている箇所なのです。

 

マタイの時代は迫害の時代です。信仰ゆえの困難もあり、誘惑があり、妥協や失敗もあったでしょう。教会が批判されたり、損害があることも合った。それでも憐れみを求める人を責め裁いて見捨てないように、この箇所があるのだと思います。

 

私だけが、一部の人だけが安心で満足ならばよいのではないのです。「わたしたち」が、日々の糧を与えられ、失敗や欠けがあってもゆるしを受けもう一度歩みだし、悪や誘惑から救い出される、そのような歩みを求める共同体の祈りなのです。

 

<キリストのゆるし>

あくまで、本来の文脈から話しましたが、この箇所を、個人の祈りとして読むことも可能です。キリストはこうも言っています。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」マタイ5章43〜44節

 

ノートルダム清心女子大学の学長で、200万分を超えるベストセラーとなった「置かれた場所で咲きなさい」の著者でもある渡辺和子さんは、9歳の時、父を2.26事件で眼の前で失いました。

やがてシスターとなり、学長となり、忙しい時を過ごしますが、テレビ出演の依頼がある。そこには、断りもなく、父を殺した側の人物が呼ばれていた。

会話もできず、飲み物も飲めず、今までは「お父様を殺した人たちを恨んでいますか」と聞かれれば、本当にきれいな言葉で「いいえ、あの方たちにはあの方たちの信念がおありになったんでしょう。命令でお動きになった方たちを、お恨みしておりません。憎んでおりません」と言っていた。けれど、頭できれいな言葉を浮かべられても血が騒いだ。飲み物さえ飲めなかった。ゆるしをきれいな言葉でまとめられないのです。牧師として、簡単に赦せとは口が裂けても言いません。

 

けれど、渡辺さんは、その時に呪うのではなく、心のなかで「お健やかに」とだけは祈れた。と本には記されています。

その後、青年将校の一部は処刑されるのですが、その法要に渡辺和子さんが一度だけ参加し、墓に手を合わせた。案内をしたのは処刑された将校の弟で、渡辺さんの姿を見て、聖書を読み、洗礼を受け、洗礼の際には渡辺さんからロザリオが送られたそうです。

わたしの尊敬する知人が、ゆるしはプロセスです、と教えてくれました。渡辺さん自身もイエス様の十字架と、自分の心の中で葛藤しながら、歩まれた。
悪や不正には厳格に向き合わなくてはなりません。文字通りの敵と対峙する場合もあるでしょう。けれど、キリストの十字架を、キリストがわたしに、わたしたちにあらわしてくださった憐れみを忘れないでいたいのです。「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」ルカ6:36 

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