6月15日のメッセージ
く台教会2025年6月15日「聖霊(パレクレートス)の再確認、めぐみの再発見」
<聖書>
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイの福音書28章20節
<ファミリータイム:12弟子たち>
この一週間、どんな言葉を聞いてきましたか?どんな考えがあなたの頭や心を満たしていましたか?それらがあなたにどんな影響を与えているでしょうか?
人は4つの言葉を聞くと言われます。1.自分の言葉、2.人の言葉、3.悪魔の言葉、4.神の言葉。自分内側の正直な思いや、人からかけられる言葉は有益です。けれど、時に自分を傷つけたり、追い込んだりもしてしまいます。ですから、私達を慰め、励まし、生かす、神の語りかけを、大切にしてほしいのです。
<あなたは一人ではない>
教師として、牧師として、いつも心に願い、祈っているのは、生徒たちの、そしてみなさんの幸せです。この世界では、悩みも苦労もなく、病気や事故やトラブルもない、ということはありえません。願いが叶わなかったり、悲しみや痛み、恐れや孤独を経験することもあるでしょう。けれどそのような毎日の中でも、慰めがあり、支えがあり、励ましがあり、神が『生きよ』(エゼキエル16:6)と言われた人生を、懸命に生きてほしい。願わくは、人を祝福して生きてほしいのです。
教会の礼拝の最後、『祝福の祈り』、の前に、『派遣の言葉』、というものを読みます。
『派遣の言葉』「平和のうちに世界へと出ていきなさい。勇気をもちなさい。いつも善を行うよう努めなさい。悪をもって悪に報いてはなりません。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを支え、苦しんでいる者を助けなさい。全ての人を敬いなさい。主を愛し、主に仕え、聖霊の力によって喜びなさい。」
この伝統ある礼拝式文に不遜ながら、『神がいつも共におられます。』とつけ加えています。
一人で歩むのではないからです。一人で歩むのは難しいからです。いえ、二人でも、三人でも厳しいのです。キリストの弟子たちは、2〜3人どころではなく、十二人、それ以上いました。自分たちもキリストのように生きたいと願っていた。人を祝福し、愛を表したいと願っていました。 でも無理だったのです。弟子たちは愛よりも恐れが、希望よりも不安がまさり、キリストを捨てて逃げてしまったのです。ペテロは恐れから、イエスを知らないと3度言いました。後悔し、隠れ、部屋の鍵を締め、震え上がって、全てを諦めたのです。
弟子たちの頭や心には、「私はもう駄目だ」、「自分にはなんの価値も意味もない」「神は自分に怒り、責めている」そんな考えや思いが駆け巡っていたでしょう。悪魔とはヘブライ語でサーターンと言います。これは、誹謗中傷する者、告訴する者、という意味です。まさに弟子たちは、悪魔の語りかけに惑わされていたのです。
確かに、一人なら恐ろしいのです。一人なら乗り越えられないのです。けれど、私達は一人ではないのです。私達は、悪魔からではない、別の語りかけが必要なのです。
弟子たちは忘れていました。十字架の前の夜、弟子たちの裏切りを知りながらも、あなたを一人にはしないと、語りかけたイエスの言葉を。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。・・・助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14:18、26~27
そして、このキリスト約束はこのペンテコステの日に実現しました。神の霊、聖霊が注がれた、弟子たちのうちに神が住み、共にいてくださるようになった。もうひとりではないのです。もう諦める必要はないのです。もう恐れて閉じこもる必要はないのです。神があなたとともにいてくださるのですから。そして、恐れや失意の中から立ち上がりました。
イエスがが言われた「助け主」とは「慰め主」とも訳される言葉で、パラクレートスというギリシャ語です。パラは、「共に、傍らで」カレオーは「呼びかける、名を呼ぶ」、という意味。どれだけ自分自身の失望や諦めが、人からの非難や悪意が、悪魔の声が頭と心を満たそうが、神が傍らにいて、共にいて失望し、自分を諦めた弟子たちの名を呼び、語りかけるのです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」マルコ1:11
そして、これはただの言葉がけではない。神が共にいる、とは、良いことがあるとか、力づけられるとか、その程度のことではない。かつて、神が共にいる(聖霊が下る)とは、その人が神の愛と恩寵を受けた、神にとって特別な存在であることを意味しました。神がともにいるとは、自分が神の愛の対象であることを意味します。弟子たちは、裏切り者である自分たちが、神がそれでも愛し尊んでいると、文字通り身を持って知ったのです。
聖霊が注がれた時、神の愛を身を持って知った時、恐れずに、嫌っていた外国の言葉で、相手を敵とせずにむしろ相手を想って語りました。そして、変わらずに、弱さや愚かさもあったでしょう。それでも、キリストが共にいるなら、私達は変えられていくのです。(第二コリント3章17~18節)
そして、聖霊が内に住むなら、キリストがともにいるなら、キリストの善き業を行います。
「孤児にはしません。」と約束された弟子たちは、街にあふれる、乏しい人、悲しむ人、見捨てられた人、孤児たちや寡婦たちに(キリストがしたように)寄り添っていったのです。
また、こうも約束されているからです。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル書2章28〜29節)
これは、十字架と並んで、神がどんな人のことも、どんな立場や状況の人をも愛しておられる証拠です。その言葉にしたがい、弟子たちは、立場の弱い人、考えの異なる人にも、キリストの愛のわざを表すようになりました。「言葉」はヘブライ語でダバール、これは「出来事」も表します。神が言葉と身を持って愛を表したように、弟子たちも身を持って愛の言葉を表したのです。
そうして、「すべての民に好意をもたれた」(使徒2:47)のです。今日の教会はキリスト教国は、好意を持たれるキリストの業を行っているでしょうか?本当に神と共にいる人は、孤児を生み出すような戦争を行わないですし、そのような戦争を支援しません。貧しいものや身寄りのないものを、排斥するのでなく、受け入れます。私達は、平和のために、祈り、声を上げ、行動していきたいと思います。
日曜にこうして集い、礼拝をし、互いに励ましあえることは大きな喜びです。けれども、それ以外の日、家庭で、職場で、学校で、様々な人間関係の中で、私達は同じ時を過ごすことが出来ません。けれど、忘れないでください。私達の神は、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と私達に誓ってくださった。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)と約束してくださった。この安心に支えられて、今日も、明日も、この地上での全ての日を、キリストとともに歩んでください。
<聖霊の続唱>
聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。
貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方、やさしい心の友、さわやかな憩い、揺るぐことのない拠り所。 苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め、恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。 あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけません。 汚れたものを清め、すさみを潤し、受けた痛手を癒す方。硬い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。 アーメン。
ペンテコステに関する補足資料
〇ペンテコステはクリスマス、イースターと並んで、キリスト教の三大祭の一つです。「教会の誕生日」とも呼ばれます。教会とは建物でなく、宗教法人でもなく、制度でもなく、当然牧師や信仰歴の長い人でもありません。教会のギリシャ語エクレシアは、「呼び出された人々」をさす言葉で、神に召された信仰者の集まりを指して、キリストはエクレシアと呼びました。ペンテコステは、聖霊降誕祭、聖霊授与祭とも呼ばれ、聖霊が神を信じる全ての者に注がれた日、私たちが教会になった日です。
〇ペンテコステはもともとは「五旬節」。過ぎ越し祭りから50日後、ユダヤ教の五旬節・「初穂の祭り」であり、小麦の収穫の始まりを祝うお祭りであり、シナイ山でモーセが律法を授与されたことを記念する日でもありました。その日に聖霊が注がれたのはとても象徴的です。 太陰暦のため移動祝日です。
〇聖霊とは、神様であり、神様の霊です。主の御霊、キリストの御霊とも呼ばれます。聖書の神様は唯一でありながら、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神の三位一体の神様としてあらわされます。
旧約聖書の時代、父なる神が、天から語りかけ、時に火の柱、雲の柱で人々を導いてくれた。
新約聖書の福音書の時代、子なる神キリストが、身体をともなって人に関わってくださった。
そして、その後は、聖霊なる神が、私達の内側に住み、人と関わってくださるようになった。
どんどんと神と人との距離が近づき、ついには内に住んでくださるほどに、神が人を求められたのです。
〇聖霊は(聖霊なる神様は)旧約聖書の時代は、ごく限られた一部の人(預言者、王様、祭司など)に、限られた時間だけ注がれ、その人は特別な働きをしました。けれどもヨエル書にはこのような約束があります。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル書2章28〜29節)このその約束はペンテコステで実現しました。ペンテコステ以降、聖霊なる神様は、特別な人ではなくすべての人の内に、一時滞在ではなく永遠に、住んでくださったのです。
〇「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、」と、神とパウロに背きに背いたコリント教会にも語られるように、全ての信仰者の内に住んでくださっています。そして、大切なのは、「御霊を悲しませ」る歩みをすることでなく、「御霊に満たされ」(エペソ5:18)「御霊によって歩」むことなのです。
ヘブライ語では霊(ルーアッハ)とは、息とか風を意味する言葉です(exヨハネ3:8)。わたし達は風を見ることは出来ませんが、揺れる枝葉や音から存在を知ることが出来ます。同じように、聖霊なる神様も、信仰者の言動から感じることが出来るのです。
◯ペンテコステで起きた様々な国の言葉で話す出来事、これはバベルの塔(創世記11章)の出来事とつながっています。人間が高慢になり天に届く塔を建てようとし、神が様々な言語を与えることで、塔の建設を阻止した出来事です。彼らが塔を立てた理由、それは「散らされるといけないから。」です。神様は「地を満たせ。」(創世記1:28)と願ったのに、人々はそれを拒んで一箇所にとどまろうと塔を、外と自分を隔てる壁を作ったのでした。だから多様な言葉を与えて、人々を地の全面に散らしたのです。壁でなく、橋を作るようにと。
