6月22日のメッセージ

5年6月22日 「あなたはどこにいるのか」 創世記3章   井本香織神学生

1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた、それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

 

 

 

  • 「あなたはどこにいるのか?」 「あなたの隣人はどこにいるのか?」

 

今日は、創世記3章の神様からの声がけから、皆さんと教えられたいと思います。

幼稚園にいたころ、友人とけんかになって、その友人の手をつねってしまいました。大変なことをしてしまった!とピアノの裏に隠れていましたところ、 担任の先生の「かおりちゃんは、どこにいったの?」という声を聞きました。

そのあと、傷つけた友人にきちんとあやまったのか、記憶がありません。その友人とは中学に行っても、まだつきあいがあったので、きっと仲直りができたのでしょう。

ただ、あのときの「たいへんなことをしてしまった!」と、隠れるまでの衝撃はよく覚えているのです。

なぜ、あの時とっさに逃げて隠れたんだろう?と考えてみるのですが、自分が相手を傷つけて、それまでの親しかった友との関係がこわれた。「自分は、お友達を傷つける子。」になってしまった、「もうおしまいだ!」という感覚があったのかもしれません。

友人、恋人、伴侶、親子、兄弟、仲間との親しい関係性というのは、それが良いものであればわたしたちに大きな楽しみや喜び、力を与えてくれるでしょう。しかし、修復できないと思えるような出来事があって、もうそれまでのようには付き合えなくなってしまえば、相手との関係を失ったときの痛みは非常に大きいものです。親しければ親しかっただけ、失った痛みは大きいです。

 

神様とアダムたちの信頼関係は、エデンの園でどれほど親しく、大きく、喜びに満ちていたのでしょうか。しかしアダムとエバは、神様との約束、つまり神との関係を大事にし続けることはできませんでした。「自分が神のようになって、神を無視して、神に背いてでも自分勝手に歩みたい。」という誘惑に負けて 2人は、食べることが許されていなかった実を食べました。

彼らは、神様から隠れました。神は、アダムたちにこう呼びかけます。「どこにいるのか。」 言い換えるならば、「あなたは、わたしとの親しい関係を失い、どこへいってしまうのか?」という呼びかけなのです。 神様もまた、人との関係性が壊れ、失ってしまったことに、悲痛な思いで嘆いているのです。

 

アダムとエバは、裸であることを知り、恥ずかしくなって腰をいちじくの葉でおおいました。 神との信頼関係がこわれる前、人は裸であっても、恥ずかしくありませんでした。裸でも恥ずかしくなかった、とは、互いを深く自分のからだように受け入れあえるような親密な関係性を持っていたという意味です。しかし、神との関係がゆがみ、傷を受けてしまったあと、アダムとエバという夫婦の信頼関係もゆがんでしまったのです。もう、裸だったところを葉っぱでおおって、隠さなければ耐えられない、自分を立派に見せなければならない関係になりました。神様から「食べてはいけないという木の実からとって食べたのか。」と聞かれたアダムは、責任をエバに押し付け、エバはへびのせいにしました。誰も自分のやったことを認めて、謝ることができません。現代にいたるまで、人は、自分のやったことを認めることができないことがあるのです。

 

アダムとエバは、エデンの園にいることのできなくなりました。そして、アダムの子どもたちもまた、神との親しい関係を失い、人との関係性もゆがんでしまいます。

アダムとエバの息子カインは、しっとのあまり、弟を殺してしまうのです。神様は、カインにこう言います。 「あなたの弟(隣人)はどこにいるのか?」カインの答えはこうでした。「知りません。わたしは弟の番人なのでしょうか。」わたしたちもまた、人との関係性において、苦しめたり苦しめられたり、無関心を装ったり、どうしたらいいのか悩み、苦しむ者ではないでしょうか。

 

2.イエス様は、どこにいるのか?―「わたしはあなたと共にいる」

旧約聖書のはじめに、「あなたはどこにいるのか?」「あなたの隣人は、どこにいるのか?」とわたしたち人間に問いかけた神様は、問いかけて待つだけの方ではありません。

わたしたちとの親密な関係を取り戻したいあまりに、イエス様は神が人となり、地上に来てまで、わたしたちを追い求めてくださいました。

 

イエス様は罪人を追い求め、罪人と同じテーブルにつかれれました。見捨てられた人を追い求め、彼らの傍らにおられました。そして最後には、自ら、十字架にかかってまで、十字架の上の強盗に、そして私達に、寄り添われました。私達の神は、私達を追い求めてやまない神なのです。

 

そして、イエス様は、今、どこにおられるのでしょう。復活したイエス様は、現代を生きるわたしたちと共にいます。そして、信仰の先輩たちはこう告白してきました。「キリストが、わたしのうちに生きておられる。」(新約聖書:ガラテヤ2章20節)と。

 

「あなたは、どこにいるのか?」それは、わたしたちを責め立てて罰を与えようとする冷たい声でもなく、私たちの人生をつまらないことに巻き込んで束縛しようとする声でもないのです。「もう恐れたり、隠れたりしないで共に、自由に生きることができるよ。」というわたしたちを愛してやまない神様からの呼びかけです。そして、一緒にイエス様が手をつないで神様の前に、隣人の前に、わたしたちを、その場に居らせてくださいます。

イエス様が一緒なら、自分のやったことに落ち着いて向き合えるようになるかもしれません。人を責め、自分を責める思いから解放されるかもしれません。神様との信頼関係が回復するとき「自分が、自分らしく、おそれなく、いられる」のです。

 

もう、アダムとエバがしたように、自分を立派に見せたり隠したりする必要がないかもしれません。もう、どうにもならないようなこじれた人間関係を思い浮かべるときでさえ、少しずつわたしたちのうちに平安が育っていくかもしれません。

 

イエス様が、今週もあなたと共にいます。そして、皆さんお一人お一人のうちに住んでおられます。この励ましを共に味わうことができますように。黙祷を持って終わりにいたします。

 

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