5月4日のメッセージ

おざく台教会2025年5月4日「召しの再確認、恵みの再発見」

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<聖書:ヨハネの福音書>

21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」 21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。 21:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」 21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 

<隣の人が気になる私達>
 私達の生涯には、様々なことが起こります。3月末には結婚式がありました。4月にはお二人の方の洗礼式がありました。先週今週と卵探しと工作がありました。先週火曜日は、◯◯さんの火葬、土曜日は葬礼拝でした。来週は幼児祝福式です。嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも、寂しいことも、私達には様々なことが起こります。そして、全員に同じように、同じようなことを体験するわけではないのです。

 

幼児園の園長だった頃、園児たちはお互いが気になるようでちょっとした差があると、「ズルい」「ひどい」と、訴えました。「うらやましい!自分も欲しい!」という願いに加え、「私もあなたに大切にされたい!」という想いもあるようで、目に見える違いを通して、こどもながらに人からの愛情や、自分の価値、を測っているようです。

 

それは、私たち大人も同じではないでしょうか?私達は一人一人違った存在として造られ、それぞれ違った道を歩むように、個々の場に置かれています。容姿、能力、経済状態、家柄、仕事、家族構成、学歴、病歴、友好関係、生活に起こる様々な出来事・・・全く同じ人は一人もいません。そのような違いが、わたし達の心や信仰を揺さぶるのです。(神様から差別されている、大事にされていない、そう感じた、誰しもあるかと思います。)

 

今日の聖書の箇所のすぐ前、ペテロは教会のリーダーとして任命されます。(このペテロの役割が、カトリック教会では教皇に引き継がれていると考えます。)

しかし、この後、自分が苦労を体験すると聞き(18節)、眉をひそめたようです。キリストに向いていた目が、隣へと向いていきました(20節)。そして、12弟子の一人ヨハネについて質問します。「主よ。この人はどうですか。」(21節)「この人はどんな苦労をしますか?」「ひょっとしてこの人は私ほどは苦労せず、迫害を生き延びるのでしょうか?それはズルいでしょう?私は愛されていないのでしょうか?」

 

 私たち人間は本来、神との関係の中で、自分の価値や幸いを見出してきました。けれど、カインとアベルの出来事(創世記4章)以来、私たちは横と見比べることで、神が自分とどう関わるか、だけでなく、神が隣の人とどう関わるか、それによって自分の価値や幸い,そして、神の愛を判断していまうのです。

そして、カインが神の愛も、自分自身の歩むべき道も見失い、アベルを殺してしまったように、私達にも同じ誘惑があるのです。

人との比較は自分を知る上でも、とても大切です。羨んだり、妬んだり、怒ったりや恨んだり・・それらの感情は生きていれば、必ず直面する感情です。けれど、横を見すぎて、上を見ることを忘れ、神と自分を見失ってはならないのです。

 

<あなたはわたしに従いなさい>

最初ペテロの心には響かなかったのかもしれませんが・・イエスはペテロの苦労を告げただけでなく。素晴らしい招きの言葉を語っていました。「わたしに従いなさい。」(19節)

もし人間がこう言うなら、「命令を聞け、口答えするな。」、そんな程度の意味でしょう。しかし、キリストの場合は違います。キリストは口だけではなく、誰もよりもへりくだり、見捨てられ傷ついた人に寄り添い、惜しみなくいのちを分け与え、十字架にまでかかる方でした。

 

キリストは、ただ道を指差し、そちらへ行けと、苦労をしろ、重荷を負え、と命令する方ではありません。ペテロが招かれた歩みは、すでにキリストが歩んでいました。ただの苦労の道ではないのです、先にイエスが歩んだ道です。そのイエスがペテロに、私の足跡をたどってくれ、と招いているのです。

 

ペテロは教会のリーダーとして尽力し、皇帝ネロの時代にローマで逆さ十字架刑で死刑になります。

 一方でヨハネはエペソ教会(現在のトルコのエフェソス)を導き、12弟子で唯一死刑にはならず、ヨハネの福音書や、黙示録を記します。(確かに二人の歩んだ道は全く同じではありません。では、ペテロはずっと不満だったでしょうか?いえ違います。ペテロは、やがて神に動かされこのように記しています。

 「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」 第一ペテロ2:21

ペテロは後に気付いたのです。自分の前にも、ヨハネの前にも、それぞれのためにキリストが残された足跡があることを。別々の二人が歩んだのは同じキリストの道でした。

 

<あなたの召された道>

 わたしたち一人一人の前にも、キリストの足跡があります。ペテロになる、ヨハネになる、別の誰かになるのでもなく、自分の前に置かれたキリストの足跡に、それを先に歩まれた方に、自分の名を呼ぶ声に従うのです。

 

 キリスト教には『召し』や『召命』という言葉があります。これは日本語では、牧師が使いますが、聖書ではすべての人に使われます。そして、教会(ギリシャ語でエクレシア)とは、呼ばれた人々、召された人々、という意味の言葉です。

 神様は私たち一人一人に素晴らしい計画を持っている、歩むべき道を用意してくださっているのです。「 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 」(エレミヤ29:11)その道を歩むように、神は招くのです。

 

もっと違う自分に生まれたかった、違う環境からスタートしたかった、違う道をたどりたかった、そう思う気持ちもあるでしょう。

けれど、あなたの目の前にあるキリストの足跡をたどれるのは、世界であなただけです。他の誰かに頼むことは出来ません。目立たないかもしれません。光が当たらないかもしれません。苦労は絶えないかもしれません。けれどそれは神があなたに「生きよ。」(16:6)と語りかけた生涯であり、「これが道だ、これに歩め」(イザヤ30:31)と言われた、あなただけの道なのです。

 

 その道を、あなたの毎日を、一生を、投げ出さないこと、諦めないこと、むしろ、「キリストならどうなさるか?」と問いながら、それぞれの生活の場、仕事の場でキリストの足跡を探し、一歩一歩その足跡に自分の足を重ねながら歩むのです。神が天へと招く日まで。それはあなただけにしかできない使命です。

 

 私達は人からの称賛や励ましの声も必要です。けれど、最も聞きたいのは、キリストの声なのです。日々の終わりに、そしてやがての日に、『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だった』(ルカ19:17)と言い、『目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。』(黙示録21:4)方の声なのです。

 

 そしてその歩みが、キリストの道であるなら、「神の栄光を表す」(19節)ことに、人が慰められ、癒され、祝福されるといった、神の善いわざにつながるのです。先ほどのペテロの言葉はこう続きます。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(第一ペテロ2:24)

 キリストの労苦により、私達は癒やされた。救われました。同じように、私たちの苦労は、だれかの慰めや励ましに繋がります。私たちの毎日は決して無駄ではないのです。

 

<今週の黙想>第一ペテロ2:21~25を読み、「あなたはわたしに従いなさい。」というこの語りかけに思いを巡らし、自分なりに神の愛に応える応答をしてみてください。

 

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