5月11日のメッセージ

2025年5月11日「教会の再確認、恵みの再発見」(母の日記念礼拝)

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19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。 19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。 19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 

<ファミリータイム:母の日の起源>

今日は母の日記念礼拝です。19世紀のアメリカ南北戦争の頃、敵味方関係なく負傷兵のために女性達を募り奉仕したアンさんという女性がいました。その方の死後、娘さんが追悼記念会を主催し、アンさんが好きだった白いカーネーションを教会に飾ったことが起源だそうです。

おざく台では、女性への感謝を込めてカードを用意させていただきました。女性は、愛や柔和さや平和を示すのに非常に長けています。まさにキリストのいのちが、女性の言動を通して実現する、受肉するのです。全ての女性達に、敬意を表したいと思います。

 

<兄弟姉妹?>

ある教会では、伝統的にでしょうか、互いに兄弟・姉妹と呼ぶため、初めて来られた方は、教会は家族が多いのかな?、と思うそうです。

その伝統は、今日の聖書箇所から始まりました。当時は、信仰故に、家や地域に居場所を失い、生活に困窮することもありました。社会保障もありません。そのため、教会は、家族の区切りや別け隔てを超えて、時に、信仰の枠を超えて支え合い、共に生きました。

 

(一方、何事にも形骸化はつきもので、兄弟姉妹が表面的に用いられ、日本の家父長制度(牧師を父親・牧師夫人を母親)を持ち込んだかのような支配的・束縛的・排他的な、準カルト集団になる場合もあり、注意が必要です。)

 

おざく台では、おざく台では週報に、兄・姉とは載せませんし、私も◯◯さんと呼びます。けれど、先日の洗礼式でも、みなさんに、受洗者のために祈り仕えますと起立して誓っていただいたように、その言葉は用いなくとも、父なる神にあって、兄弟であり、姉妹であり、互いを尊び、愛し、祈り、仕えあう私達、本当の教会でありたいのです。

 

もう一つ、その言葉を用いないのは、神様は、枠や壁を超えることを願われるからです。教会で、洗礼を受けた人を兄弟姉妹と呼び、洗礼をまだお受けになっていない方や、他教会に籍のある方を◯◯さんと呼ぶ、私達の主イエスはそんな区別をしたでしょうか?

 

<神様の視点に立つ>

貧しさや苦しみの中にある人に寄り添い、違う立場や信仰の方々と対話をし、日本に来て核廃絶を訴え、マイノリティの方々を祝福し、刑務所に行き受刑者の足を洗うなど、世界中から、尊敬していた教皇フランシスコが、先月召され、先週新たな教皇選挙がありました。

教皇は、国籍、信仰の有無にかかわらず、文字通り、しもべのようにひざまずき、足を洗い、言いました。「私達は多様で異なる文化や宗教を持っています。しかし、私達は兄弟なのです。そして、平和の中で共に生きたいと願っているのです。」

 

わたし達は互いを敵や味方、仲間や他人に分けます。(同じ国の人、同じ肌の人、同じ意見の人、同じ信条の人など)戦時中やコロナ禍、経済的な危機など、私たちが余裕を失う時、そのような分断が顕著になります。

けれど神様はそのようには分けていません。聖書によれば、人間に敵味方はありません。わたし達はみな天の父の子です。神に心を込めて造られた存在です。

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。・・・私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(詩篇139:13~16)

 

そして、イエスは十字架の上で、親交はありつつもあくまで他人である者同士に、

「『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われ、・・・『そこに、あなたの母がいます。』と言われた」のです。そして、ヨハネはマリアを母として身柄を引き受けました。十字架で語られた言葉は、人間の目には他人である者を、母のように、子のように、家族のように、愛し、守り、仕えるべき存在として、結びつけるのです。

 

前述のアンさんは、様々な感情が乱れる戦争の中でも神の視点に立ち続け、敵味方を分けず、神様の大切な存在として、奉仕を続けました。傷つき苦しむ兵士たちを見て、たとえその人が戦争をしている相手側の兵士であっても、「そこにあなたの息子がいます。」という神の言葉が耳に響いていたのかもしれません。

 

<教会に受肉した愛>

今日の言葉は、一見、他の6つと比べると、具体的であり、個人的であり、自分とは関係ない言葉と考えられがちです。しかし、教会の歴史を知ると、これほど教会に関係があり、教会に影響を与えた言葉もありません。

初代教会の時代は、信仰ゆえに、当時の社会から村八分にされることもありました。当時は社会保障もありません。教会は、そのような人達の新しい母として、新しい子として、新しい家族として受け入れ、心も、力も、経済も、分け合い合いつつ共に歩みました。(使徒2章)

 

そして、教会は十字架の主イエスの言葉を、同じ信仰を持つ人だけに留めませんでした。かつては、貧しく夫に先立たれた女性には、身寄りのない子どもには、病や障碍を背負った人には、文字通り先はありませんでした。

教会はキリストがしたように、自分の家族であるかのように、分け与え、仕えて歩みました。古代にも何度も感染症はあったのですが(ex:キプリアヌスの疫病)、教会は見捨てられた人に寄り添っていった。その姿を通して、信仰が広まっていったとされます。目に見えない神の愛が、目に見える奉仕として、受肉していったのです。教会はこのキリストの言葉に導かれ続けました。

 

社会福祉や医療体制の違う今日では、当時と同じ対応が適切とは限りません。しかし、自分と人を分けない心、家族であるかのように愛し仕えていく心と姿勢だけは失ってはならないのです。

みなさんのクリスマス献金は、ガザ地区のこども支援、路上生活の方々生活支援、などにも捧げさせていただきました。

私達たちは、そこにあなたの母がいます、そこにあなたの子がいます、という主イエスの言葉に従うのです。

また、主イエスの言葉に背き、立場の弱い人を踏みつける全ての悪に対して、NOと言うのです。

 

<受肉した愛を配る>

母の日に教会では、カーネーションを配ります。わたし達の使命は、目に見えない神の愛が私達の言葉や行動に表すこと、見えるものとして受肉(インカーネーション)したキリストの愛を配ることです。

ですから今日のことばを忘れずいつも耳に響かせてください。十字架のキリストは、あなたが大好きな人を指し言われます「そこにあなたの姉妹がいます」。そして、あなたが心を向けていなかったり、心を向けたくない人を指して言われるのです「そこにあなたの兄弟がいます。」

 

忘れないでください。この言葉が十字架の上から語られたことを。十字架は、神を離れた私達を、再び神の子として受け入れるのに必要でした。まず私達が、神の子として、愛する家族として(ヨハネ1:12)受け入れられたのです。まず私達が言われたのです。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1:11)その神からの言葉を、あなたは誰に言いましょうか?

 

<今週の黙想>あなたがその一日で、家族のように受け入れ愛するようにと、キリストから語られている人は誰でしょうか?今週、一日にごとに、祈りの中で示された一人の人に、あなたなりの愛を表してみてください。

 

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