毎日の聖書4月28日〜
おざく台教会毎日の聖書 4月28日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
4月28日(月)ヨシュア記5章
2節「主はヨシュアに仰せられた。『火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。』」
割礼は、神との契約の証、イスラエル人のアイデンティティです。けれど、エジプトを出た後に生まれた人々は割礼を受けていなかったのです。そこで、約束の地での戦いを前に、神の恵みを、神が共にあることを、再確認したのです。
割礼は昨日の洗礼と重なる面があります。あなたの受けた洗礼のこと、それまでの日々や当日のことを丁寧に思い返してみてください。そして、神の恵みに立ち返るのです。
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」ローマ6章4節
4月29日(火)ヨシュア記6章
16節「その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。『ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。』」
すぐに城壁を壊さず、7日間も周りを回ることを通し、勝利が人間の力でなく、神の力によることが明らかになりました。神様のすばらしさが現れたのです。
神様に造られたわたしは、誠実に生き、良い業をすることは大切です。その過程で、人から評価されることもあるでしょう。けれど一番の願いは、わたし達を通して、神様の愛と憐れみが表され、人の心が神様に向くことです。作曲家のバッハは、いつも楽譜の終わりにS.D.Gと記していました。Soli . Deo . gloria(ただ神にのみ、栄光がありますように)。わたし達もそのような歩みができますように。
「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイ5章16節
4月30日(水)ヨシュア記7章
19節「ヨシュアはアカンに言った。『わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない。』」
神の言葉に背き、民を傷つけ、主の栄光を汚す、アカンの姿に自分自身が重なります。アカンは罰を受けましたが、わたし達の場合はキリストが身代わりに十字架で罰を受けました。十字架の赦しはいつも先行しているのです。安心して自分の罪や汚れや弱さを神に告白してください。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」Ⅰヨハネ1章9節
5月1日(木)ヨシュア記8章
31節「モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。」
異教の豪華な祭壇と比べれば、見劣りするでしょう。人間的に見れば豪華な祭壇のほうが神々しく、畏敬の念を抱きやすいものです。しかし、人は雰囲気や見映えを喜びますが、神はわたし達のまごころを喜ばれます。飾らず、背伸びせず、あなたらしく神の前に出て祈りませんか? 良い時間になりますように。
「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」Ⅰサムエル16章7節
5月2(金)ヨシュア記9章
14節「人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示をあおがなかった。」
自分はいつも正しい、自分は御心をなしている・・・そんな過信が過ちを招きました。わたし達は普段から神様に指示を仰いでいるでしょうか?自分の願いや、都合のよい人の言葉に、耳を傾けているだけでないでしょうか?静まり、聖書を開き、祈り、聞き続けてみてください。日常でも立ち止まり、祈り聞いてみてください。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」エレミヤ33篇3節
5月3日(土)ヨシュア記10章
42節「ヨシュアはこれらすべての王たちとその地とをいちどきに攻め取った。イスラエルの神、主が、イスラエルのために戦われたからである。」
勝利の記録の最後に、主が戦われたから勝利できたと証言されています。同じ神様がわたし達の日々の戦いを戦ってくださいますように。私達がこのように一日の終わりに、また生涯の終わりに、この証言をすることが出来ますように。
「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」詩編20篇7節
5月4日(日)ヨシュア記11章
15節「主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりに行い、主がモーセに命じたすべてのことばを、一言も取り除かなかった。」
ヨシュアは、神様の言葉を一言も取り除きませんでした。わたし達は地理的なカナンの地にはいませんが、私たちは救いという約束の地に入りました。そこでは祝福を妨げる、誘惑や内なる罪といった強敵と、戦わねばなりません。その際に妥協は命取りです。
聖書の言葉は、文脈や時代背景を踏まえつつ読む必要はありますが、神様を知ったわたし達なら、その箇所で神様が何を本当は伝えたいか、神様の心は何か、きっとわかるはずです。その神様の心に対して、妥協なく歩む一日となりますように。みこころが天で行われるようにわたし達の今日一日にも行われますように。
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」マタイ6章10節