4月20日のメッセージ

「私の主、私の神よ」イースター礼拝  2025年4月20日 おざく台キリスト教会 斎藤義信信徒説教者

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ヨハネの福音書20章19節~29節  19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。『平安があなた方にあるように』。20こうい言ってイエスは手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。21イエスは再び彼らに言われた。「平安があなた方にあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。22こう言ってから彼らに息を吹きかけて言われた。『精霊を受けなさい。…」24十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。25そこでほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、そのわき腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。26八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸に鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなた方にあるように」と言われた。27それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者でなく信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる者は幸いです。」         (2017年度版新改訳聖書)

 

イースターおめでとうございます。

開いていただいた聖書の個所は、イエス様の十字架の死後、復活された後の弟子たちの様子、そして主か弟子たちのことを思い、考え、主との関係を確かなものにする箇所です。主は生前、弟子たちに何度か語られていた言葉は「人の子は三日目によみがえれます」(マタイ20:19)と言うお言葉でした。ところが、この期に及んで彼らは気が動転してしまし、どうしていたかというと19節「ユダヤ人たちを恐れて戸に鍵がかけられていた」と恐れと不安で家に閉じこもっていました。その訳はイエス様の十字架の死を通して自分たちにもどんな大きな迫害が来るかしれないと考えて、恐怖におびえ、一つ家に閉じこもり中から過ぎ去るのを待っていたのでありました。そして戸には「鍵はかけてあった」という表現が2回繰り返されていることから彼らの心中は計り知れないものがあったのでしょう。

 

そうした彼らの家の彼らの真ん中に主は姿を現し、立たれた、とあります。そして「平安があなたがたにありますように」という言葉が3回伝えられ、傷ついたイエス様の体の描写もやはり3回出てきています。この傷ついた主の体の描写は、今、目の前に立っている復活したイエス様が、十字架につけられて死んでしまったイエス様につながっていることを強調するためのことであると思います。そしてこのイエス様の復活された姿を見て「…弟子たちは主を見て喜んだ」(20節)、「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで」(マタイ28:8)とも記されています。多くの弟子たちもそうであったと思います。ただし、弟子たち全員がそうであったかどうかはわかりません。恐怖と怯えのために幻でも見ているように感じている弟子もいたかもしてません。それは24節に出てくる弟子の一人トマスの言葉や態度からも伺うことが出来るのではないでしょうか。そのトマスはちょうどイエス様が彼らの真ん中に立たれたときに「彼らと一緒にいなかった」(24節)というのです。何故一緒に居なかったのでしょうか?彼だけ何か特別な理由がであったのでしょうか。

 

人間には四つの気質があるといわれています。気立て、人間個人の性質等を指していますが、「多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質」4つに区分された気質があると言われています。今日は詳しく説明しませんが、この弟子のトマスは粘液質ではなかったかと思います。その粘液質の性質は沈着冷静、粘り強い、またマイペースという性質があるといわれています。

ほとんどの弟子はユダヤ人を恐れて一つ部屋にいたのにトマスだけそこに居なかった。つまり、先生であるイエス様が十字架で死んで終わってしまった。「さて、これからどうしたら良いのか?」一人だけ冷静になり、今後どうすべきかを一人考えていたためそこに居合わせなかった、とも考えられます。いわゆるマイペースです。他の人のことはともかく自分はどうすべきかを考える。そういうタイプの人間です。しかし25節ではトマスも弟子たちの中に加わって他の弟子たちが口々に自分たちは主を見た。復活されたイエス様にお出会いしたと言い始めて時に、彼は自分の目で手の釘の跡、槍で刺された脇の下に手を差し入れてみなければ、信じない、と言い始めて信じませんでした 。

 

昔から世の中にはこういう人はおります。自分の目で確かめなければ信じない。納得がいくまで信じない。信仰においてもそうです。自分で見て経験しなければ例えば、主の奇跡の御業について「これらは聖書の中の奇跡(作り話)で現実的にはあり得ない…」 そう言う人です。非難するつもりではありませんが、これはトマスだけではありません。しかし、こういう人たちに対してこの聖書の個所では、主は八日後に再び現れ、トマスに「…あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者でなく信じる者になりなさい。」(27節)そう言われました。主はこういう疑い深い人に対してその事実をちゃんと示してくださいます。この主のお言葉を目の当たりにするときに私たち人間の知恵、知識には限界のあることを感じますが、神様のそういう領域には全く限界がないことを感じます。例えば聖書の理解においても私たち人間には解説、説明がつかないところがありますが、神様のレベルならば当然なのでしょう…。と思うところが多くあります。

 

そして「トマスはイエスに答えた。『私の主、主よ。』イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる者は幸いです。』」(28〜29節)確かに見て信じることは簡単ですが、見ずに信じることは難しいです。しかし、キリスト教信仰においてこういうケースが多くあると思います。ともかく疑り深い、粘液質のトマスも信じることができました。「トマスはイエスに答えた。『私の主、私の神よ。」(28節)と、これで弟子たち全員は本当に「主をわが救い主」として信じ、生前の主と同様に復活の主を自分たちの道しるべとすることが出来たのではないでしょうか。

そしてもう一つこのような弟子たちにはこの世における主からの託宣がありました。もっとも重要なことだと思いますが、復活したイエス様との出会いが「ゆるし」の体験でありました。「ゆるし」とは「和解」と「関係の回復」を意味しています。

イエス様が十字架につけられる前までは彼らは熱心に従ってきました。自分たちの仕事を捨て、また家族を捨てて従ってきました。多少悶着することも時々ありましたが、主を師と仰ぎ、熱心でありました。しかし、あの十字架を前にした時に彼らは、一人残らず、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまいました。その第一弟子と言われたペテロにおいては刑場においては呪いを掛けてまで主を知らないと言い張りました。イエス様の弟子としては皆失格者でした。

しかし、復活されたイエス様は彼らを責めるのではなく、再び弟子として受け入れて下さいました。裏切りの首謀者であるペテロには「わたしを愛しますか?」とヨハネ伝21章15節から三度に渡り要求され、最後に「私の羊を飼いなさい」と言われました。ペテロも二度とこのような過ちはしないと心から肝に銘じたのであります。

私たちは今は弟子たちのような辛い経験をすることは余りないと思います。しかし、時代は変わっても信仰を持つこと、またその信仰を継続することに大変な努力をする場合もあると思います。信仰を途中で投げ出したいような時もあるかもしれません。

 

私も信仰に導かれ、やがて主の前に献身(神学校に進み、主に仕えたい)して神様の御用のために仕えたいという志が与えられ、家族に告知したときに家族から大反対を受けたことが思い出されます。特に兄からは猛反対を受け、当時通っていた教会の牧師を家に呼出し、逆に説教をたんとしたこと思い出します。その時は教会の兄弟姉妹達が本当に祈って下さったことを記憶しています。

私たちは、この地上においては多くの困難や問題が信仰の故にあります。しかし、主はこういう私のために十字架に掛かり死なれたのだ。そして多くの主にある兄弟姉妹たちの背後の祈りがいつも支えになっていることを思い、今週も問題がまだ残っている方もそうでない方も主の供えられた道を遅々たるあゆみかもしれませんが、歩んでいきましょう。

 

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