毎日の聖書3月3日〜

おざく台教会毎日の聖書 3月3日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

3月3日(月)民数記19章

19節「身のきよい人が、それを汚れた者に、三日目と七日目に振りかければ・・・その者は夕方にはきよくなる。」

「身のきよい人」はどこにいるでしょう?キリストだけです。私達「汚れた者」にはこの方による罪のきよめが必要です。最近、いつ神の前に悔い改めの祈りをしましたか?時間を取って告白と悔い改めをして、いよいよ神に立ち返ってみてください。

 

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」第一ヨハネ1章9節

3月4日(火)民数記20章

12節「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。」

忠実に歩んだモーセもアロンも、民の身勝手さ・不信仰さのゆえにストレスが溜まっていたのでしょうか、軽率なことを口にし(詩篇106:32~33)、神の怒りを受け、約束の地に入れなくなりました。(究極的な意味での約束の地である、神の国にはもちろん入りましたが。)

私たちは生きていれば、様々なストレスを感じる出来事に遭います。けれど、その時こそ私たちの信仰が問われる大切な時です。困難の時こそ、一呼吸おいて、天を見上げ、あなたの信仰を発揮してください。

 

わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」ヨシュア1章9節

3月5日(水)民数記21章

9節「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」

この青銅のヘビはキリストの予型です。(参考:ヨハネの福音書3:14~15)ところで、私達はキリストを「仰ぎ見」ていますか?見下ろしたり、適当に見てはいませんか?あなたのキリストを見る態度が、そのままあなたの信仰を表します。人間はギリシャ語でアンスローポス(顔を上にあげる存在)。私たちはキリストを見上げた時こそ、人間らしく歩めるのです。

 

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」イザヤ45章22節

3月6日(木)民数記22章

21節「朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。」

バラムは、神の御心をすでに知っていました。しかし、お金や名誉に心奪われ、モアブのつかさたちと出かけたのです。あなたも、神の御心を、本当はどうすべきかを知っていながら、誘惑するものと「いっしょに出かけ」てはいませんか?あなたを誘惑するものとは、誰ですか?何ですか?その誘いを拒み、距離を取ってください。

 

「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」ローマ13章12節

3月7日(金)民数記23章

27節『さあ、私はあなたをもう一つ別の所へ連れて行きます。もしかしたら・・・』

バラクは、場所を変えれば、神の御心が変わるもしれないと考えました。しかし、場所を変えたところで、神の御心は変わりません。問題から逃げることは、解決をより難しくするだけです。すでに神の御心に気付いているなら、従うほかに良い方法はないのです。今日という日こそを、信仰の一歩を踏み出す、決断の日としてください。

 

「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」第二コリント6章2節

3月8日(土)民数記24章

11節「今、あなたは自分のところに下がれ。私はあなたを手厚くもてなすつもりでいたが、主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ。」

バラムは神の御心を拒むことができず、バラクから退けられます。神のみことばに忠実であり続けることは、短期的には、利益を失うという代償を払うことになるかもしれません。しかし、損得を度外視して神に従うことを選ぶ者たちは、地上でも神が良くしてくださり、やがての天の御国でも計り知れない富を手に入れることになるのです。(参考:マタイの福音書6:19-21)。どうか、安心して神の御心を選んでください。

 

「自分の宝は、天にたくわえなさい。・・・あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」マタイ6章20~21節

3月9日(日)民数記25章

7節「ピネハスは、わたしのねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、わたしの憤りを彼らから引っ込めさせた。」

ピネハスは、神(真理)のために怒りましたが、これを義憤ともいいます。しかし、義憤には謙遜と成熟とが求められます。歴史上多くの自称ピネハスが、自分の妬みや欲を主の怒りと勘違いし、軽率な行動で、神の民を傷つけてきました。怒りを感じたら、手や口を制し、祈り聞いてみましょう。この怒りは神の栄光のためですか?と。自分の不純な思いが混じってはいませんか?と。大抵の場合は、自分のこだわり、過去の傷、狭い了見、妬み、といったものが含まれているのです。人を責める前に、まず自分自身を十分に取り扱ってください。

 

「自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」ルカ6章24節

 

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