3月9日のメッセージ
2025年3月9日「悔い改めの再確認、めぐみの再発見」
<ルカの福音書15章>
17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』
<受難節:悔い改めの期間>
3月5日(水)『灰の水曜日』から4月20日の復活祭(イースター)に向けた、受難節(レント)の期間に入りました。古代より、洗礼を復活祭に受ける伝統があり、その前の40日間を洗礼に、新しい歩みへと向けた悔い改めの期間として大切にされてきました。この間は、肉や、油や、卵、嗜好品を絶ち、慎ましく生きる習慣がありました。我慢が目的でなく、神に集中して心を向けるための期間です。その前には謝肉祭(カーニバル)で食べ物を消費したり、復活祭でその期間に生まれた卵で祝ったりします。
<悔い改めは、感情でなく、方向転換>
聖書にも『悔い改め』という言葉が出てきます。イエス様の宣教の第一声も、『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』(マルコ1章15節)でした。
一方で言葉を翻訳する限界と言えますが、『悔い改め』という言葉は『悔いる』という言葉の印象が強く(実際の原語自体には、感情の意味は一切ないのですが・・・)反省する、後悔する、悲しむ、嘆く、という感情のイメージがあります。
ですから、一部の教会は、悲しみ嘆くことこそが悔い改めの本質と考え、『あなたは罪深いのだ、邪悪で汚れているのだ、悔い改めよ』とその人の心や考え、それまでの歩みを全否定するかのように、語ります。
もちろん、罪深さ、自己中心さ、実際の過ち、への反省や嘆きは大切です。(旧約聖書のサウル王やダビデ王は、預言者の叱責に、心を痛め、すぐに反応しました。)
けれどそのような、感情的な後悔や、自己否定ばかりが強調・強要されると、『私は汚れた罪人で、全く間違っています。』『私の内側には何も良いものはなく、何もできない存在です。』と、せっかく神に造られた自分を小さくしてしまいます。そして、過去や意思を否定し、思考を止め、団体や指導者(教会や牧師)に盲従し、カルト的な支配関係に巻き込まれてしまいます。(受難節がいつまでも続き復活祭がやってこないのです。)
しかし、イエス様は『悔いよ』とは言っていないのです。それなら他の言葉があります。そうではなく『悔い改めよ』と言っている。ギリシャ語でメタノイア。メタ『変わる』、ノイア『考え』という意味で、方向転換、視座の変化、に使われる言葉です。聖書辞典では『回心』となっています。対応するヘブライ語も『戻る』とか、『帰る』という言葉(シェーブ)です。
感情でなく、視点・考え・行動の変化に重点が置かれているのです。私達が、見方を、考え方を変えよ、というのが、悔い改めです。(実は、罪を悔い改める、という表現は聖書にはないのです。)
<悔い改めは、個人的変化でなく、神との関係>
では、回心というからには、目や心を何に向けるのでしょう?回心・悔い改めは、個人の問題ではありません。神との関係の中で理解される言葉です。
『宗教』(Religion)と聞くと、自分が高い次元に引き上げられる、私が天国に行く、など個人的なイメージがあります。しかし、キリスト教の本質は、神との関係です。
本来『宗教』という言葉はラテン語で、レリージオ。Re『再び』とLigare『結びつく』から出来た言葉。離れていた神と再び結ばれる、という意味が込められています。
回心とは、方向が大切です。罪とはギリシャ語でもヘブライ語でも、的を外す、道を外れる、といった意味の言葉です。ですから、ただ別の道に行けばいいのではなく、正しい的に、本来の道に、父なる神に目を向ける、というのが悔い改めの本質なのです。
<悔い改めは、下ではなく、上を向く>
そして、その神は、私達を叱責し、否定し、罰する神でなく、私達を尊び、愛し、受け入れるめぐみの神です。新約聖書ルカの福音書15章にでてくる有名な例え話、『放蕩息子の帰郷』は本当の悔い改めを教えてくれます。
当時正しくないと言われた人たち(取税人・罪人・遊女)がイエスのそばに大勢いた。彼らは確かに、目を向けるべき神を見ず、道を誤っていた。自分たちなど、神にも人にも尊ばれないと下を向いていた。しかし、イエスが彼らのところに来て、彼らもイエスに目を向けた。彼らは方向転換、本来の意味での悔い改めができていたのです。しかし宗教家は、彼らを、彼らを受け入れるイエスを責める。そこで、イエスは神の心を語るのです。
父の家を離れた息子。古代中東の文化では、死罪に当たるほどの無礼で恩知らずな行為です。まして、財産を食いつぶし、汚れた動物とされた豚の世話をするほどまでに身を落とす。けれども、的を外し、道を外れた息子は、背を向けた家に、帰ってきたのです。すべてを失い、家の名誉を汚し、何ひとつ差し出せないままです。食べ物のために、召使にしてくれ、と願います。(深い人格的な反省や、父の心への深い理解は、無さそうです)
けれど、父は、遠くから彼を見つけ、走りより、抱きしめます。罰せず、叱責もしません。靴を履かせ(召使でないという証)、指輪をはめ(相続権の証)、服を着せ、お祝いをします。
父は償いとして差し出される物や、深い反省や、生まれ変わった歩み、心からの涙によって、息子を受け入れたのではありません。どれだけ身を落とそうとも息子が息子であるから、こちらを向いてくれたから、ただそれだけですべてを受け入れたのです。
もし、神が閻魔大王のような存在なら、悔い改めとは、私達を叱責し、今までのすべてを否定し、惨めな気持ちにさせ、神に顔向けできないと、下を向かせるものです。
しかし、神はめぐみの神なので、私達は一方的に愛され、赦され、受け入れられ、私達は驚きと喜びをもって神の顔を見上げ上を向く、これが本当の悔い改めです。
私達を変えるのは、後悔ではありません。悔いたつもりで、同じことを繰り返すのが私達です。私達の、心に、生活に、新しい変化をもたらすのは、恵みです。変えられたから愛されるのでなく、愛されたからこそ変えられていくことができるのです。放蕩息子が変えられていくのは、まさにこれからです。
<悔い改めは、叱責でなく、良い知らせ>
だからイエスはこの世界に来られ、『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』(マルコ1章15節)と最初に言われたのです。ほら見て、どんな人をも愛する神の恵みが現れた。あなたは、神に愛されている、あなはた救われる、この喜びの知らせへの招きが、向きを変えて見て!、という呼びかけなのです。
そう私達を招いた方は、受難節に十字架にかかりました。私達は、イエスの姿を見、そして、十字架のイエスを見るのです。
そこには、たとえ人や自分が否定しようとも、決して変わらない神の愛が表されています。私達は、この下を向いたり、人と比べたり、視野が狭まったり、悪いものに目が向くときもあるかもしれません。しかし、いつでも、十字架に向き直りながら歩みたいのです。そこで、神の愛を知り、神に尊ばれた自分を知り、本当の生き方へと向かうのです。
いつも、そして、受難節こそとくに、めぐみ深い神に、私達を愛し十字架にかかってくださった方に、目を、心を、魂を向けて、歩むことができますように。
