3月2日のメッセージ

2025年3月2日「いのちのパンを分かち合う」イザヤ書58章6〜11節    井本香織神学生

 

『6 わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これを着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。8 そのとき、のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。9 そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、10 飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。11 主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。』                  

 

春からのNHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』は作家のやなせたかしさんがモデルの作品です。やなせさんの代表作といえば、アンパンマン。ご自身で作詞をした主題歌の歌詞「何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんてそんなのは嫌だ。」は有名です。

 

やなせさんは、日中戦争と太平洋戦争で、弟を戦地でなくし、自分も中国に出兵し、戦争の愚かさと、お腹が空いていることがどんなにみじめで苦しいことかということから、初代アンパンマンという作品を発表しました。

『12の真珠』という童話集に登場した初代アンパンマンはただ空を飛べるだけの小汚い中年の男性です。貧困や戦争によって飢えに苦しむ子供たちにアンパンを配ることで世界を平和にしようと独裁国家だろうが紛争地帯だろうが単独で乗り込んで活動していました。けれども、世界中の人からは戦う力を持たない薄気味悪い男と疎まれ、救った子供達からはダサいとバカにされました。それでも世界の平和を望み、誰からも尊敬されないのにアンパンを配り続け、挙句の果てに軍隊に敵機と間違われて撃たれてしまうのです。

 

やなせさんはこう述べています。『本当の正義というものは、けっして、かっこいいものではないし、そして、そのために必ず自分も深く傷つくものです。そういう捨て身、献身の心なくして正義は行えません。正義のヒーローは本当に私たちが困っている飢えや環境破壊などと戦わなくてはならないのです。困っている人を助けること。ひもじい思いをしている人に,パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです。』

 

これを読んで、今日の聖書の箇所が思い浮かびました。聖書は、礼拝、断食のような宗教行為についても記されていますが、なんと神様が宗教行為をむのです。そして、『わたしの好む断食とはこれではないか。』と、神様が人に本当に願っていることを告げます。

『悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え・・・さまよう貧しい人を家に招き入れ、指をさすこと、呪いの言葉をはくことをあなたの中から取り去るなら・・・・飢えている人に心を配り・・・苦しめられている人の願いを満たすなら・・・』

 

アンパンマンがお腹の空いた人、元気を失った人に、自分の顔を分け与えるように、私達も、必要を覚える人、悲しむ人によりそうこと、これが神様から、私達への願いなのです。

 

逆に言えば、当時の宗教的な人たちは、礼拝はする、祈りをする、断食をする、けれども、貧しい人や悲しむ人、げられている人に、手を差し伸ばすことはなかった、自分が救われること、自分が祝福されること、それだけを求めていたのです。今日もキリスト教やユダヤ教の国と自称しつつ、自国の繁栄だけを求め、他国や弱い立場の人をないがしろにする、それは神様が望んでおられることでしょうか。

 

一方で自分もそのような生き方に、なっていないかな?と思わされます。この箇所は分かる。けれど、人に与えるって、とても面倒くさく、疲れやすく、自分が損をするような気がしないでしょうか。

 

でも、本当はそうではないのです、先程の聖書はこう続きます。『(そうすれば)、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。』イザヤ58章

 

これは人にやさしくすればご褒美に神が良くしてくださる、というより、そのような本当の生き方をした時こそ、私達はまっすぐに神様と向き合い、神様と歩む素晴らしさを体験できるのです。自分が与えることで、自分も満たされる、そんな生き方があるのです。

 

自分も思えばそうでした。青年期に自分を受け入れてくれる友が欲しい、それから、なんのために生きていったらいいのかを求めて、飲み会にたくさん行って、いくつかのサークルをさまよっていました。「あの人は、自分を受け入れてくれない、あの人は〇〇してくれない、そんなことをよく思っていました。」自分が受け入れてもらうこと、やってもらうこと、ばかり考えていたように思います。自分の友になってくれる人がほしい、自分が何のために生きているのか、を求めて、心が飢えて、渇いていました。

 

アンパンマンの歌にあるように、「何のために生まれて、何をして生きるのか」探し求めてもわからないときに、人の心は飢えて、渇いたようになると思うのです。二十歳を過ぎた頃になってクリスチャンの友人、先輩たちに出会って、神様が自分を愛してくれていること、イエス様が自分の友となってくださったこと、自分の心が満たされていることがだんだん実感できました。神様からたくさんもらった愛を、他の人に分かち合うような人になりたいな、と思うようになりました。

以降も、正直、一生懸命やったけれど、不器用でうまくできなかったり、疲れたり、けなされたり、受け入れられなかったりして、損したかな、と思うこともありました。そんな時は、少し休んで、よく寝て、好きなことをして、美味しいものを食べて、充電をして、そしてまた少しずつやってみたら良いのです。また神様がからの励ましに気づくことができるようになります。

そして、「自分がやってもらうこと」ばかり考えて「あの人がこれをしてくれない、あれをしてくれない」と自分が与えられること、損をしないこと、ばかり考えて生きるよりは、神様がいろいろな方法で、わたしの心を満たしてくれてるんだよな、ありがたいな。それをおすそ分けしたいな、と思う方が幸せだな、と思っています。

 

やなせさんがクリスチャンという噂を聞きますが真偽は定かではないそうです。ですが、そう思わせてしまうほど、彼の作品はイエス様の姿が重なるのです。イエス様こそが私達のために友となってくださり、命を与えて、私達を生かそうとしました。

『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』ヨハネの福音書6章51節

『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。』 ピリピ2章6〜8節

『わたしはあなた方を友と呼びました。』 ヨハネ15章15節

 

今でも心が弱ると、「あの人は◯◯してくれない」、「この人は△△してくれない」と考えがちです。(シスターの渡辺和子さんはそんな自分を「くれない族」と呼んでいました。)

でもそんなとき、イエス様は私のために生まれて、私のために十字架にかかってくださった、魂がひもじく飢え渇き泣いている私に命のパンを差し出してくださった、イエス様が友となってくださり、どれだけのことを私にしてくださったかを思い返すのです。

 

毎月行う聖餐式はそのことを身を持って体験する行為です。『イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えてそれを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。』マタイによる福音書26章26節

 

初代教会が大切にしたイエス様の言葉、『受けるよりも与えるほうが幸いである』使徒20章35節これは、イエス様が私達に教え込もうというよりも、そのように生きてくださったイエス様ご自身の実感だと思います。皆さんも私たちも、「心が、魂が渇いたな。」そんな時は、少しでも神様からの愛、周りの人から大切にされていることに気づけますように願っています。イエス様が私たちの友となって命のパンを分け合ってくださいました。今度は、次の人に、周りの人におすそ分けする。そんな歩みをするように私たちが成長させられますよう。私たちは友であるイエス様の歩みに従い、祝福を、いのちのパンを分かち合うため生きているのです。

 

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