1月5日のメッセージ

2025年1月5日『恵みによってはじめる』 創世記1章

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1 初めに、神が天と地を創造した。2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。3 神は仰せられた。「光あれ。」すると光があった。
4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみを区別された。5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

 

27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」・・・31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 

<ファミリータイム:2つの創造の物語>

創世記には1章と2章に、2つの創造物語が記されています。(正確には1章〜2章4節前半、と2章4節後半〜、に分けられます。)1章は、世界の始まり。2章は、人間の歴史の始まり、と言えます。

 

1章は世界の始まり。なにもない混沌(カオス)の世界に、「光よ、あれ。」という言葉が響きわたり、昼と夜とに分かれ、秩序(コスモス)が生まれます。2日目は、天と地の水が分けられます。3日目には、海と陸、植物や穀物や果実、4日目には、太陽と月、5日目に海と空の生き物、6日目に陸地の生き物と人間が造られ、それらを見て、「非常に良かった」、と語られ、7日目を祝福し、休みました。

2章は人間の歴史の始まり。すでに地があり、地の塵から人を形造り、いのちの息を吹き込みます。エデンの園に置き、よい木を生えさせ、動物を造り、名付けさせ管理させる。その助け手として、男性のあばら骨から女性が造られ、そして、ヘビの誘惑があり、善悪の知識の実を食べ(自分が神のように判断する)、神から離れる。その人を神が追い求めるように関わり、その後の歴史が続きます。

 

<補足1>

今日の本論から脇道にそれますが、創世記には、今日の自然科学の理解と異なる内容も見受けられます。それは、最初の、聞き手・読み手が、現代や、1000年後の人ではなく、2〜3000年前の人だからです。聖書の最初の読み手は科学者でなく、普通の人々だからです。彼らの状況に合わせ、大切なことを伝えているのです。同時に、当時の人に向けて(To)語られ記されましたが、今を生きる私達のために(For)も語りかけるものがあります。)

 

<嵐の中へと歩みだす人々へ>

1章と、2章には、内容や順序には細かな違いがあります。そこには意味があるのです。

実は、聖書は創世記2章から読んでも問題ないのです。2章は人間を中心に、地上からの視点での創造物語です。人間が創造され、エデンの園で、堕落し(神を離れ)、罪の影響の中で苦難に溢れた歴史が続いていく・・・話としては問題なく成立します。

2章以降に展開される、生きる苦難や、人間との関わりの中での失望、絶望を突きつけるような不条理な出来事、それらの登場人物たちの姿に、私達は、自分自身を重ねることも多くあるでしょう。

もちろん神は諦めず関わってくださる、けれどそれでも人は誘惑で堕落したり、妥協し悪を重ねたり、苦難に翻弄され、日々向き合うの圧倒的力を恐れ、失望します。まだキリストがクリスマスに生まれる前、旧約聖書しかない時代、それでも人々は、希望と信仰を失わずに歩み続けました。創世記2章の創造物語の前に、1章の創造物語があったからです。

 

2章は、地からの視点、人間が主体の創造物語であるのに対して、1章は天からの視点、神が主体の創造物語です。かつて人々は、地からの視点に失望しそうなときも、創世記1章を、天からの視点を覚え、歩み続けたのです。

 

<1.混乱を超える神>

創世記1章とは、ただ世界の始まりを記したわけではなりません。人々を打ち砕き、恐れさせ、失望させるものがあったとしても、必ず神が助けてくれる、彼らを恐れさせるものは実は神の手の中にある、そう私達を励まします。

たとえば最初に大水があります。当時の読み手(陸に住む民族)にとって、川は命の源でした。しかし、海や、大水は、命の源ではなく、人間が太刀打ちできない、混沌や死の象徴でした。人々は、海や、湖から恩恵を受けつつも、恐れたのです。

けれど、神はその混乱の上に、光をもたらしてくれた。水を上と下に、しっかりと分けてくれた。陸と海とに分けてくれた。神は混乱に秩序をもたらし、私達を守り支えているのだ、そのような意味が込められているのです。

(ですから、天の水が落ちてきて、創造以前のように地が大水に覆われたと表現されるノアの洪水とは、神が人とかかわらなくなる、秩序(コスモス)が失われ混乱(カオス)に飲み込まれる悲惨さと恐怖とを象徴しています。)

 

また、月や星は、(なぜ夕があり昼があったと、最初から書いてあるのに後から創造されているのかの理由なのですが)太陽はエジプトで、月はメソポタミアで、神としてあがめられていたものでした。つまり、太陽、月、星は、他国の、巨大な国々の神、その力の象徴だったのです。それすらも神が創造した。エジプトの国も、オリエントの国も、その他の国々も、それらが世界を支配しているのではなく、あくまで神の手の中にある、そう言うのです。人々が恐れていたもの、それすらも神が造りだしたものであり、神がしっかりと支配してくれている、だから恐れるな、そう励ます内容だったのです。

 

私達は、新しい年向けて、現実の難しさ、生活の厳しさ、壁の大きさに、恐れたり、諦めたりしているかもしれません。その時には、この創世記1章を思い返してください。もちろん罪の影響はある、それでもこの世界は神が創造した本来はよきものであり、自然も、国も、神が統べ治めてくれている、そう信じて歩みたいのです。

 

<2.良きものとしての私達>

また、私達日々の生活の中で、様々な困難や、周囲からの影響の中で、自分自身に対しての、自信や誇り、目的を見失ってはいないでしょうか?

かつての信仰者達は、世界から見ればマイノリティ、力のない人達でした。厳しい現実の中で、目的を見失ったり、自分達を否定的に捉えたりしてしまう誘惑にさらされていました。だからこそ、この創世記1章を大切にしたのです。

 

3節をご覧ください。この世界は、わたし達は、「あれ」と神に願われて、存在することを喜ばれてこの世界に生きているのです。

31節をご覧ください。神はわたし達を見て「非常に良かった」と言われているのです。(そのものの素晴らしさに加え、神の善い目的にかなっている、という意味もあります。)

27節をご覧ください。私達は「従えよ、支配せよ」と、神様にこの世界を善くするようにと、期待されているのです。

かつてのユダヤ人達は、力ない、小さな民でした。けれど、神の心を創世記1章から受け止め、どんな状況の中でも神を信じ、神に造らた自分を信じて歩み続けたのです。

私達も一年の始まりにこの天の視点をいつも大切にしたいのです。

<最後に>

創世記1章は、当時の人とは違った響きを持って今の時代に届く、未来への手紙、という側面もあります。
たとえば、昔は「産めよ増えよで良かったのです。」しかし人類が他の生物や自然に大きな影響を与えるようになった今日では、1章27節の言葉が、かつてとは別の響きをもって私達に語られています。私達には、神の創造されたこの世界を適切に保つ責任があるのです。
また古代は、女性が所有物のように扱われていた家父長制の時代でした。けれど、はっきとりと「男と女とに」とあるように、男性と女性との立場を等しく捉える内容として、歴史を通して、人々に働きかけてきました。
また、7日目の休みが示すように、わたし達は人間らしくあるために、しっかりと心と体を休める必要があることなど、今日特に必要なこととしてわたし達に届いてきます。

 

創世記1章を、ご自分でもゆっくりと読み、恵みによって新しい一年を始めてください。

 

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