毎日の聖書1月6日〜
おざく台教会毎日の聖書 1月6日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
1月6日(月)出エジプト記30章
30節「あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。」
かつてはごく限られた人が祭司となり、神と関わりました。しかし今や「あなたがたも・・聖なる祭司として」(Ⅰペテロ2:5)とあるように、私達もまた祭司なのです。宗教改革者マルチン・ルターは万人祭司説を唱えましたが、牧師や教会を通してだけでなく、あなた自身が神と出会い、交わり、神の愛を伝えるのです。あなたは神から素晴らしい役割を受けているのです。
「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。・・・あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」第一ペテロ2章5&9節
1月7日(火)出エジプト記31章
15節「六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。」
安息日には、(1)手を止め神にゆだねることを学ぶ、(2)神を第一にする、そして(3)もうエジプトの奴隷ではない、といったことを味わい体験する意味がありました。
あなたは、何かの奴隷となり縛られてはいませんか?しかし、あなたはもうそれから解放されているのです。安息日とは、それらから離れ、神との交わりの中で憩う日です。今年の夏、本当の意味での『安息日』を計画してみませんか?
「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」詩篇27篇4節
1月8日(水)出エジプト記32章
29節「モーセは言った。『あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。』」
ルカ14:26~27が思い浮かびます。これは、家族を憎み軽んじよ、家族と争えという意味ではなく、大切な家族よりも、自分自身よりも、神を優先させよという命令です。まず神を全力で愛し、次に家族と自分とをも全力で愛するのです。本当の愛は家族を損ないません。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ6章33節
1月9日(木)出エジプト記33章
19節「わたし(神)は、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
モーセはただ一人選ばれ(苦労はありましたが)、神と親しく交わり祝福を受けました。神は、あなたに目をとめ、選び、この恵みとあわれみを与えているのです。あなたの日々の苦労を棚に上げて言わせてください。神の恵みを受けているあなたは、幸いなのです。
「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」第三ヨハネ1章2節
1月10(金)出エジプト記34章
35節「イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。」
老人モーセの美肌が輝いた・・のではありません。人は神と出会い交わることで、目も、存在も輝くのです。私は友人達(彼らは意識しなかったでしょうが)の顔や姿に神の輝きを見てキリストを信じました。神と交わるなら、あなたは無意識に神の光を放つのです。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」第二コリント3章18節
1月11日(土)出エジプト記35章
22節「すべて心から進んでささげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を主にささげた者はみな、そうした。」
彼らは高価な品を余り過ぎて受けるほうが困る(36:7)くらいに捧げました。強いられて?見返りを期待して?いえいえ、神が大好きだったからです。神に「感動して」(26節)いたからです。素敵ですね。私達の神と人への行為が、取引でも自己顕示でもなく、ただ、神の恵みへの応答でありますように。そして、神はそれを心から喜ばれるのです。
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」第二コリント9章7節
1月12日(日)出エジプト記36章
5節「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」」
民があり余るほど捧げ奉仕したのは神の恵みへの応答です。金の仔牛の罪を赦してくださり、神が再び民と関わってくださることに感動したからです。私達の宗教的な行為は、神の愛を獲得するためではなく、すでに差し出された神と愛と憐れみへの私たちなりの応答です。奉仕とは犠牲でなく応答なのです。
「日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」ローマ14章6節