毎日の聖書12月30日〜
おざく台教会毎日の聖書 12月30日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
12月30日(月)出エジプト記23章
29節「わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。」
短期のうちに問題が解決せず、長い忍耐を必要とする場合があります。「神は全能なのになぜ私の悩みをあっという間に解決してくれないのか?」と疑問に思う時もあるでしょう。しかし、その期間もまた神の配慮によるのかもしれません。早急に判断せず、神様の思いにも心を向けてみてください。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。・・・神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」伝道者の書3章1~2,11節
12月31日(火)出エジプト記24章
8節「そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。』」
神はイスラエルと動物の血により契約を結びました。そして御子イエス・キリストの血により、私たちと永遠の契約を結んでくださいました。(ヘブル9~10章)。それは、限定的なものではなく、永遠の契約です。キリストの血による契約のゆえに、神は私達がどれだけ愚かで罪深くても、見捨てたり、見放したりしません。「私達は真実でなくても、彼は常に真実である。」(Ⅱテモテ2:13)神の誠実さに安心して、新しい年を歩みだしてください。
「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」マタイ26章28節
1月1日(水)出エジプト記25章
2節「すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」
神へ何かを献げることは、見栄や見返りのためではなく、恵みの契約への感謝、自発的な応答です。私たちは愛されるために捧げるのでなく、すでに愛されたから、神に、人に、自分自身を捧げていくのです。私達の毎日が、神の恵みへの応答でありますように。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第一ヨハネ4章10節
1月2日(木)出エジプト記26章
26節「幕屋を十枚の幕で造らなければならない。」
神との出会いの場である幕屋に、細心の注意が払われています。一方私達は神との出会いをどれだけお手軽に済ませていることでしょう。形式主義に陥る必要はありませんが、神と出会える尊さ、素晴らしさを、いつも喜んでいたいのです。
また、幕屋とは、神との出会いの場、持ち運ぶ神殿の事です。私達の一日は、職場でも、学校でも、家庭でも、電車の中でさえも、そこが神との出会いの場となるのです。いつでも、どこでも、わたしたちは神と出会うことが出来るのです。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28章20節
1月3日(金)出エジプト記27章
20節「あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。」
私達は「世界の光」(マタイ5:14~16)です。そのともしびは、礼拝、祈り、黙想、賛美、奉仕、などの油によって燃え続けます。その小さな光が、神との会見の幕屋を照らし出すのです。人々を神との出会いへと導くのです。あなたの存在は希望の灯、希望の光なのです。
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイ5章16節
1月4日(土)出エジプト記28章
3節「あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵のある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなければならない。彼を聖別し、わたしのために祭司の務めをさせるためである。」
私達の知恵、才能、能力、それらは神からの賜物であり、神と人を愛するという目的のために与えられています。使い方を間違い、自分だけのために用いようとしてはいませんか?キリストはご自身の、身体を、心を、時間を、いのちを、人へと、私たちへと注ぎ出した方でした。あなたは?
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」第一ペテロ4章10節
1月5日(日)出エジプト記29章
42節「これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。」
かつては、動物の血を、その命を犠牲にすることにより、神に出会うことが出来ました。そして、新しい契約の時代、キリストの犠牲の血ゆえに、私たちは何の交換条件もなく、神と出会うことが出来る特権にあずかっています。ところで、この素晴らしい特権を利用していますか?私は神の前に正しくない・・・そう思って神に出会うのをためらってはいませんか私たちは、愚かでも、知識が足らなくても、罪深くても・・キリストの十字架のゆえにいつでも神に出会えるのです。
「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」エペソ3章12節